カ章の中で変化する前の原体《げんたい》――それで辞書をひかなければならないのに、その原体のわからない言葉がよく出て来た。伸子はつい素子に質問しかけた。
「訳せると思ったからひきうけて来たんだろう」
素子はそう云って、伸子のあいてにならなかった。
「ひとりで探したらいいじゃないか」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へのこるかもしれない伸子。そういう提案をされている伸子。しかし、自分はちがう。日本へ帰る。素子は二人の生活の方向がちがった、ということを、現在共同につかっている部屋の床の歩く領分のけじめにまで示そうとするようだった。素子は、木曜日以来、伸子のデスクに近づかなくなった。二人共同の衣裳箪笥が、その部屋では伸子の寝台のおかれている壁のわきに立っている。素子は、その衣裳箪笥に用があるとき、自然に歩いて伸子の寝台に近より、その上にとり出した衣類を一時おくこともしなくなった。そういう変化のすべては意識的であり伸子に苦しかった。
素子も苦しいのだった。二人がいっしょに暮さなくなるそのことも、たえやすいことではないけれども、こんどのことで素子を最もさいなむのは、傷けられた自尊心とでもいうべきものだった。木曜日に、素子は、二人はいっしょにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たんだぜ、と云った。それは素子が伸子に向って訴えたただ一度の言葉だった。一緒にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た伸子と素子とが、或る日、素子ひとり戻って行く。佐々のうちのものは、伸子をのこして、ひとり帰って来た素子に向って何というか、それは伸子に想像されることであり、そしてまた、それが素子を根本的に動じさせることでないことも想像された。素子をたえがたくしているのは、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にのこるようになったという結果を反射して、自分に向けられるにちがいない軽しめのようなものの予感だった。彼女がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で収穫した学問への軽蔑ではないにしろ、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に残った、という事実は、一方に、どっさりの本をもって、ロシアの現代古典に通暁し帰って来た素子の生活態度と、つよく対照するのは当然であった。ソヴェト同盟や他の国の街々で三年暮して来た間に、伸子の生活感情と、素子の生活態
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