痰ノくやし涙をうかべるばかりだった。
「まあ、ちょっと見て!」
 その新聞をふりまわして、素子に見せた。
「ハハハハ」
 素子は、椅子にのけぞるようにして笑った。
「のんびりしていて、しごく結構じゃないか。姉のすすめにしたがっては、傑作だ。この調子なら、きみのおっかさんも安心だろうさ」
「――察して頂戴!」
 和一郎の明日の人生にとって、この答えは何たることだろう。伸子はそう思わずにいられなかった。
 その談話が、はたして和一郎の話したとおりかどうかは、伸子にわかりようもなかった。しかし、そっくりそのままでなかったにしても、和一郎のインタービューの気分は、若い和一郎夫妻の、のんびり工合に焦点をおいた記事をかかせる種類のものであったことに、ちがいはなかった。和一郎に、期待するというほど明瞭な感情ではないにしろ、ぼんやり伸子が抱いていた好望のこころは、くずれた。結局、和一郎は気まかせな人生を送るだけの男だろうか。そのようにも社会の現実からはなれた和一郎を肯定して小枝にはきびしく内助の力量にかけている若妻として多計代が見ているような佐々の家庭内の姿。そこは伸子にとってちっとも帰りたい場所ではなかった。
 日本では共産党がたびたび狩り立てられている。二月にもおおぜいの人々がとらえられた。街では市電の男女従業員が催涙弾でうち倒されている日本。佐々のうちを、徐々に、徐々に崩壊させながら、日本の歴史は佐々のものたちの知らない軸の上で、動いている。
 その動いている歴史の、あのこと、このこと、いっさいの細かいいきさつの何について伸子は知っていると云えるだろう。――急速に旋回しながら伸子の考えはある一点に舞いおりて、そこにとどまった。そこには、ヴェルダンの秋の叢に光っていた円い金色の輪がある。伸子がそこを歩いているとき失神したパンシオン・ソモロフの、黒と白の石だたみ廊下がある。死んだ保の思い出がある。悲しみに耐えてふるえている浅野蕗子の、清らかな小さい赤い唇があり、彼女の弟も、日本の苦しみの中で命を絶った。わたくしは彼のためによい姉ではなかったと思います。――
 たたみかかる思いの切なさで、伸子は頭をあげ、息の通りを楽にしようとするように白いなめらかな喉をのばした。伸子はそっとデスクの前を立って、部屋の外へ出て行った。

 伸子の全存在が、苦しい疑問符だった。例の翻訳をしていること、
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