ウれているヴェーラの細面で凜《りん》とした写真を見ている伸子に、山上は、
「こっちは、翻訳してもらいたいんだ」
 同じような装幀の一冊を示した。ネチャエフの伝記だった。
「組織へはいりこんでいたスパイを制裁した男だ。レーニングラードの薬学校の裏の洞窟で――」
 ずっと昔よんだドストイェフスキーの「悪霊」の一場面が、急にはっきり思い出された。同じようなレーニングラードの何かの専門学校の裏山の洞窟、そこで制裁される背信の若者。それらがドストイェフスキー独特の暗さと蒼白さとで描かれていた。
「ドストイェフスキーが小説にかいている事件かしら」
 それにとりあわず、山上元は、
「ネチャエフという男は、大した男だ」
と云った。
「つかまって、牢屋へぶちこまれて、いくど法廷へひっぱり出されても何一つ組織については云わなかった。それをよんで、きみが適当だと思う部分だけ翻訳すればいいんだ」
 いや応ない山上の口調であった。
「それは、いそがないから、ゆっくりでいい。もっとも六月の半ばになれば、僕はクリミヤへ行ってしまうがね。日本のインテリゲンツィアは、あんまりいくじがないから、ひとつ、ネチャエフみたいに、しっかりした男もあるってことを教えてやる必要がある」
 ネチャエフは、ヴェーラと同時代の人だった。一八〇〇年代の終りの革命家たちであり、ロシアの革命がテロリズムからマルクス主義の革命の方向に発展してゆく過程の人たちなはずだった。日本のインテリゲンツィアが、いくじがない、と云う山上の批判の内容が伸子にわからなかった。同時に、革命の歴史のちがう|人民の意志《ナロードノ・ヴォレツ》党の英雄の伝記が、きょうの日本の人たちにどんな直接の影響をもつのかということも、伸子にのみこめなかった。
 のみこめないままに伸子は紙の端々の黄ばんだ二冊の本をかかえて、リュックスを出た。

        十五

 伸子は街の景色をすっかり瞳にうつしながら、しかしそのどれをも見ているとは云えない状態で、トゥウェルスカヤ通を下って行った。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にこの自分が止ることができる。――思いがけず伸子に示された可能性は、リュックスの建物を遠ざかるにつれて、ますますその信じがたい事実で、伸子を圧倒した。山上元を通じて、いつか自分がそのようなものとして見られていたということ。それは、伸
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