ワるようにと云った瞬間から、もう九分どおり決ってしまったようなものだった。伸子が、最後の一分でわからないでいるのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に止ったとして、それからの伸子がするべき仕事は何かという実際上の問題だった。伸子は、年齢にくらべると、早くから文学上の仕事で働き、それで生活しつづけて来た。
「何も心配することはない。きみの能力ですることはいくらもある。ありすぎるぐらいだ。いくらいい小説を書いたって、日本じゃせいぜい千単位なのにくらべりゃ、こっちで、十万部読まれた方が、どんなに作家としたって気持がいいかしれなかろう。ソヴェトじゃ、どんな本だって、少くとも出版されるからには十万が最低だよ」
それは、大きい部数がよまれるのは作家にとってうれしいことに相異なかった。しかし、それにしても、いい作品をかく、ちゃんとした作品が書ける、ということが先決問題であることに疑いない。伸子には、その点が、わからないのだ。そして、話しているあいての山上元が、そういうこまかい実際の点を理解していない――というよりも、国際的な革命家として、そういう面に直接ふれる必要のない生活を送って来ているひとだということが、伸子に切実に迫った。出版される部数の多寡だけに、文学の意味はないと思われる。――
「こうしてはどうでしょう」
こんどは、伸子から提案した。
「一週間たったら、考えをきめた上で御返事に来ます。それでは、どうかしら」
「そうしよう!」
山上元も、このまま問答をつづけているのは、時間のむだだと感じはじめていたらしかった。
「それでいい。じゃあ来週のきょう。いいね。やっぱり三時」
山上からみれば自分はどんなに不決断でまどろっこしい女だろう、と伸子は、きまりわるく思った。
帰りかけようとする伸子を山上が、
「あ、ちょっとたのむものがある。待ってくれ」
と、とめた。彼は、寝台と反対の壁ぎわにつくりつけられている高い書棚から二冊の本をもって来た。
「これは、きみにやる」
ヴェーラ・フィグネルの伝記であった。ロシア革命家叢書のうちの一冊で、革命から間もない一九二二年に出版されているその本は、そのころの窮乏をものがたってわら半紙のように粗末な用紙に印刷されている。
「フィグネル、知っているんだろう? |人民の意志《ナロードノ・ヴォレツ》党の婦人闘士だった女だ」
石版刷
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