ヨも、さつき[#「さつき」に傍点]夫人は、いくたりかの婦人たちになぐさめられようなどと考えて来ているのでないことは、明瞭だった。
伸子がさつき[#「さつき」に傍点]夫人にあったのは、あとにもさきにもそのとき一度であった。大杉栄には、魔子という娘もいた。その少女は、何か偶然のことで、田舎のおじいさんのところへ行っていたかで、生きのこった。思えば、その魔子もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てしまった山上の娘が、リュックスの出窓の前へ、誰はばからず悠々と洗濯した靴下をぶら下げて暮しているようには、生きていないわけだった。
元気のいいタイプライターの音がやんだ。印刷された紙が機械からはずされ、クリップでとめられた。
「さあ、すんだ」
山上元の、背の高くない、がっしりとした体が、伸子のおさまっているテーブルの向いの使いふるされた肱かけ椅子へ移って来た。
「えらく、お待たせした」
そして、去年の十二月、彼の七十回の誕生祝賀のときプラウダにのった大きい写真で伸子がよく見知っている山上元の特徴のある三白眼が、まっすぐ伸子を見た。亡命生活をつづけている老革命家であり、その晩年に計らず父親としての生活ももつようになった山上元の、遠慮のない、観察的な視線を、伸子もかえして、山上元を見た。年よりの柔かくなった筋肉につつまれていても、短くて四角い山上元の顎は、何と強情で、まけじい魂をあらわしているだろう。節のたかい太い指。剛い眉。山上元の住んでいる室内にも彼自身の体にも、新しいと云えるものは一つも見あたらなかった。けれども、日向の古い石が確りしていて清潔であるとおり、七十歳の山上元は、強情にしっかりしていて、さっぱりしていた。年とった大きい犬と、仔犬とが、かぎあって、互に不満足でなかったときのような親しい感じが伸子の心に湧いた。
「――『自伝』を、ずっと前、拝見しました。それから、この間うちインプレコールへ出たようなものも――」
「世界的経済恐慌の軌道における日本」という山上元の論文は、日本共産党の事情を知らない伸子に、その任務や、目下たたかわれている闘争の状況、党内の偏向は右翼日和見の清算主義であることなどを教えた。ウォール街のパニックと連関する日本の経済恐慌と戦争準備の事情についても伸子は非常に多くのことを学んだ。
「そうか。僕も、よっぽど前、何かの雑誌で、きみの
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