曹「た小説をよんだことがある、何だったかもうおぼえちゃいないがね」
山上元が、僕というとき、それは紺がすりを着た老人という感じだった。
「きみがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来ていることは、きいていた。とにかく、よく来たよ」
論文などをかくとき山上元は英語を使用していた。伸子がこの室へ訪ねて来たとき、彼のうっていたのも英文タイプだった。けれども、彼の話す日本語は、ちっとも錆びついていないで、いきいきしていた。ソヴェトの生活をどう思うかという質問が出たとき、伸子は、ありのままに話した。
「七ヵ月ばかり、あっちこっちして、ロンドンやベルリンをちょっとでも見て来たのは、わたしのために、ほんとによかったと思います。日本で、わたしは何にも知らないで来ているから、ロンドンなんか見ると、しんから資本主義の社会ってものがわかったんです。ドイツにしても――ドイツってところは、ベルリンをちょっと見ただけだけれども気味がわるかった。ソヴェトというものの価値が、しっかりのみこめてしまったんです」
「ハハハハ、のみこめてしまった、か。そういうもんだ。僕が一八九四年にロンドンやエジンバラの貧民窟を見て、社会主義についてまじめに考えはじめたようなもんさ」
山上元は暫く話していて、
「一つ、僕のつくったジャムをごちそうしてやろう」
身軽に立って、伸子があんまりそっちへ目をやらないようにしていた室の一隅へひっこんだ。その一隅にバネのよわくなった寝台がおかれていた。寝台の裾にちょいとした衝立《ついたて》があって、そのかげに、水のつかえるところがあって、顔を洗ったり、茶を入れたりする場所になっているらしかった。山上元は、衝立のむこうから、相当はなれた窓のわきにいる伸子に向って、大きな声で喋った。
「僕は、きみなんかより、ずっと料理がうまいよ。若い時分、アメリカでは、ケチン仕事を何でもやったもんだ。ジャムをつくることなんかは、なかんずく得意だね」
伸子は、笑い出した。
「じゃ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、ようございますね。苺やいろんなベリーがどっさりあって、やすいから」
「ところがいそがしくて、ジャムもあんまり煮ていられない」
せっかちらしく、指先の太い両手にコップについだお茶をもって、山上元は衝立のかげから現れた。伸子は、自分が動かずにサーヴィスさせては
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