ノ立って、おとなしくかけあいを傍聴するのだった。
「さ、七十五カペイキ……いいだろう?」
 リンゴ売は、いこじに、
「八十五カペイキ!」
と大きな声で固執した。
 するとそのとき、リンゴ売と並んで、すぐ隣りの雪の上に布をかぶせてなかみのわからない籠をおいて、赤黄っぽい山羊皮外套の両袖口からたがいちがいに手をつっこんで指先を暖めながら、フェルトの長防寒靴をパタパタやってこのかけひきを見ていた若い一人の物売女が、かみ合わせた白い丈夫そうな前歯と前歯の間から、真似のできないからかい調子で、
「キタヤンキ!(支那女)」
と云った。はじめと終りのキの音に、女の子がイーをしたときそっくりの特別な鋭い響をもたせて。――
 たちまち素子が、ききとがめた。リンゴ売の方は放り出して、
「何ていったのかい」
 花模様のプラトークをかぶったその物売女につめよって行った。頬の赤く太ったその若い女は、素子にとがめられてちょっと不意をくらった目つきになったが、すぐ、前より一層挑戦的に、もっと、意識的に赤い唇を上下にひろげて、白い歯の間から、
「キタヤンキ」
と云った。近づいて行った素子の顔の真正面に向ってそう云って、ハハハハと笑った。笑ったと思った途端、素子の皮手袋をはめた手がその女の横顔をぶった。
「バカやろう!」
 亢奮で顔色をかえた素子は、早口な日本語で罵り、女を睨んだ。
「ひとを馬鹿にしやがって!」
 また日本語で素子はひと息にそう云った。あまりの思いがけなさに、瞬間、伸子は何がなんだかよくわからなかった。同じようにあっけにとられた物売女は、気をとり直すと、左手で、素子にぶたれた方の頬っぺたをおさえながら、右手を大きくふりまわして、
「オイ! オイ! オイ!」
 自分の山羊皮外套の前をばたばた、はたきながら泣き声でわめきたてた。
「オイ! オイ! この女がわたしをぶったよウ。オイ! わたしに何のとががあるんだよう! オイ! オイ!」
 若い物売女のわめき声で、すぐ四五人の人だかりが出来た。よって来た通行人たちは、わめいている女に近づいてよく見ようとして、素子をうしろへ押しのけるようにしながら輪になった。
「どうしたんだ」
 低い声でひとりごとを云いながら、立ちどまるものもある。素子は、よって来る人だかりに押されて輪のそとへはみ出そうになりながら、急激な亢奮で体じゅうの神経がこりかたまった
前へ 次へ
全873ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング