qは、いつもの皮肉な笑いかたをして伸子をみた。
「わたしは、見ない」
 笑おうともしないで、遠いそっちを見つめながら伸子が答えた。
「――気味がわるい――それに変だわ。――レーニンは、死んでるから、うるさくないかもしれないけれど……」
「これだけの仕事をやっていながら、あんな子供だましみたいなこと、やめちまえばいいのさ。――これだからわるくちを云われるんだ」
 二人は、支那門へ向う踏つけ道を行った。「サトコ」のオペラの舞台が見せるように、諸国からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へと隊商たちが集った昔には、この辺に蒙古を横切ってやって来た粘りづよい支那商人のたむろ場所があったのだろうか。支那門のわきにも、いろんな露店が出ていた。こちらには食糧品が多かった。バケツに入れたトワローグ(クリームのしぼりかす)などまで売っている。素子と伸子とはそういう品々を見て歩き、素子は素子らしく、ホテル暮しでは買ってもしかたのない鶏一羽の価をきいたりした。そして、一人のリンゴ売りの前へ来かかった。年とったその男は、ものうげに小さい木の台へ腰をおろして、山形につみ上げたリンゴを売っていた。ちょっと肩のはった形で、こいクリーム色の皮に、上気《のぼ》せた子供の頬っぺたのように紅みが刷かれている。そのリンゴは、皮がうすくて匂いの高い、特別に美味しい種類だった。ただ赤くて、平ったく円いリンゴよりは価もいい。素子は、
「うまそうなリンゴだね」
と立ちどまって見ていたが、
「パチョム(いくら)?」
 くだけたねだんのききかたをした。リンゴ売は、ろくに開けていないような瞼の間から、ぬけめなく、価をきいているのがロシアの女でないことを認めたとみえ、
「八十五カペイキ」
 わざとらしいぶっきら棒さで答えた。
「そりゃ、たかい」
 素子が、こごみかかって果物を手にとってしらべながら、ねぎりはじめた。
「七十五カペイキにしておきなさい。七十五カペイキなら六つ貰う」
 素子が、買いもののときねぎるのは癖と云ってよかった。日本でも、一緒にいる伸子がきまりわるく感じるほど、よくねぎった。気やすめのようにでも価をひかれると、もうそれで気をよくして払った。あいにくモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、辻待ちの橇も露天商人も、素子のその癖を刺戟する場合が多かった。伸子は、こういうことがはじまるとわき
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