謔、に、女を睨みすえたまま立っている。物売女は、一応人が集ったのに満足して、さて、これから自分をぶった女を本式に罵倒し、人だかりの力で復讐して貰おうとするように、頬っぺたを押えて、から泣きをしながら一息いれた。そのとき、女の背後の車道の方から、スーと半外套に鳥打をかぶった中年の男がよって来た。瘠せぎすで鋭いその男の身ごなしや油断のない顔つきが目についた刹那《せつな》、伸子は、これはいけない、と思った。むずかしくなる。そう直感した。伸子は、いきなり素子の腕を自分の腕にからめて輪のそとへひっぱり出しながらささやいた。
「はやく、どかなけりゃ!」
素子は、神経の亢奮で妙に動作が鈍くなり、そんな男がよって来たことも心づかず、伸子が力いっぱい引っぱって歩き出そうとするのにも抵抗するようにした。
「だめよ! 来るじゃないの!」
さいわい、物売女をとり巻いた人々は、真似《まね》の泣きじゃくりをしている女とまだ伸子たちとの関係に注意をむけていない。二三間、現場をはなれると、はじめて素子も自分がひきおこしたごたごたの意味がわかったらしく、腕をひっぱる伸子に抵抗しなくなった。二人は、出来るだけ早足に数間歩くと、どっちからともなく段々小走りになって、最後の数間は、ほんとに駈けだして、ボリシャーヤ・モスコウスカヤの前の通りまで抜けた。気がつくと、一人の身なりのひどい男の子が、かけだした伸子たちのわきにくっついて自分もかけながら、
「エーイ、ホージャ!(ちゃんころ) ホージャ!(ちゃんころ)」
と、囃《はや》したててはねまわっている。しかし、ここでは、それに気をとられる通行人もなかった。
伸子たちはやっと普通の歩調にもどった。そして、青く塗った囲いの柵が雪の下からのぞいている小公園のような植込みに沿ったひろい歩道をホテルの方へ歩きはじめた。このときになって、伸子は膝頭ががくがくするほど疲れが出た。力のかぎり素子をひっぱった右腕が、気もちわるく小刻みにふるえた。伸子は泣きたい気分だった。
「――つかまらせて……」
伸子の方がぐったりして、散歩の途中から気分でもわるくしたというかっこうで二人は室へ戻った。
帽子をベッドの上へぬぎすて、外套のボタンをはずしたまま、伸子はいつまでもベッドに腰かけて口をきかなかった。素子も並んでかけ、タバコを吸い、やっぱり何と云っていいか分らないらしく黙って
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