セった。
建物について入口の方へもどって行きながら、伸子は、
「何て、ことわりましょう」
こまったように蜂谷良作を見上げた。
「面白いけれど、住めないわ。――あんまり巡回図書版のアナトール・フランスごのみで……」
蜂谷良作は、入口の石段のところに立って彼らの戻って来るのを待っていた経営者に、
「非常に居心地よさそうで、ちゃんとした庭をおもちですね」
と云った。
「そうです、そうです、ムシュウ」
「ところで、あなたの下宿《パンシオン》は、外国人にあんまり馴れておいででないように見うけますが……」
「そうです、そうです、ムシュウ」
「わたしたちは、あなたの伝統に敬意を表しましょう。このマドモアゼルは、主に英語を話しますから」
「そうです、そうです、ムシュウ」
年よりの角顔に、安心したような、気のいい微笑が浮んだ。
「さようなら、マドモアゼル」
老人は、子供の時分から見なれて年月を経た大木をいつか愛しているように、自分の下宿の伝統を愛しているのだった。
その日、伸子と蜂谷良作は、もうひとところの貸室を見た。セイヌ河のむこうにあるアトリエだった。古い寂しい横丁に面した一つの石門をはいると、そのすぐ右手に住みすてられたようなアトリエがたっていた。趣味のある大きい鉄の蝶番《ちょうつがい》つきの小扉をあけると、そこがもう煉瓦じきのアトリエの内部だった。なかくぼに踏みへらされた煉瓦の床に窓からの日かげが流れていて、高いガラス張りの天井から落ちる光線が、うっすり埃をかぶった中二階の手すりや、その辺のがんじょうな木組みを見せている。いつ舞いこんだか、床にマロニエの枯葉がころがっている。
それは荒廃したアトリエだった。ほんとに仕事をする場所としては、もう役に立たないところかもしれなかったが、伸子の目にうつる廃屋めいた風情は、空想をそそった。一緒にくらす愛するものがあったら、こんなところに暮してみるのも面白かろう。町すじの寂しい人気なさ。見すてられているようなアトリエ。男と女とが棲《す》むのでなければ、ここでの生活の愉しさはかもし出されようがない。
蜂谷良作と伸子とは、小扉をあけてアトリエに入ったところにたたずんだまま、しばらく黙ってその辺を見まわしていた。
「――どう? そろそろ行きましょうか」
そう云ったのは伸子だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、
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