L子は、いつも持っている赤い表紙のパリ案内を出しかけた。そして蜂谷からキャルディネという町名の綴りを教わりながら頁をくると、それは親たちの住んでいるペレールと同じ第十七区だった。
「ああ、あった。ここだわ。ホラ、キャルディネ……。近いし、わかりやすいところなのね」
 桃色にぬられている地図を見ながらちょっと思案して、伸子は、
「番地教えていただいて、あしたでも、わたし自分で行って見ます」
と云った。蜂谷は、そういう伸子をいくらか解せなそうに、
「僕の方は、ほんとにかまわないんですよ」
 額によこ皺をよせるようにして伸子をみた。
「一人じゃ、交渉なんか、めんどうくさいでしょう?」
 伸子の言葉が不自由なのを、蜂谷はそういう表現で云った。
「ありがとう。――でも、また無駄足だとわるいから……」
 何となし伸子にはそんな予感があった。
「そんなことは、室さがしにつきものだ。ともかく、あした、あなたのいい時間によりましょう」

 キャルディネ通りの下宿の経営者はふるい軍人あがりらしい老人であった。彼が、ともかくうちの庭を見て下さいと、蜂谷と伸子とを、いきなり庭へ案内したのは、かしこいことだった。というのは、こぢんまりした三階の建物に沿ってしつらえられている生粋《きっすい》にフランス風の小砂利をしいた細長い庭こそ、その下宿《パンシオン》の気質《かたぎ》を語っていたから。奥が深いかわり間口が狭い庭に、夏の日をしのぎよくするための葡萄《ぶどう》棚がつくられていて、建物の入口の横から庭へはいる境は、低い植込みだった。手入れのゆきとどいた小砂利の上には、白く塗った鉄の庭園用テーブルと同じ椅子が三つ四つおかれて、その一つに、黒ビロードの部屋着を羽織った髭の白い老人が、小型の本を片手にもってよんでいた。老人の頭に、黒ビロードの室内帽がかぶられている。老人は、しずけさのうちにゆるゆるとすぎていく時間を居心地よく感じているらしく、低い植こみのかなたに現れた伸子と蜂谷の方へ、自然な一瞥を与えたきり、ふたたび読書に没頭して行った。
 パリの賑やかさのうちに静けさをたのしんで生きている恩給生活者を主な客としている下宿であることは、庭の様子に語られていた。そして、どこか武骨なところのある経営者は、自分の下宿《パンシオン》が、古いフランス流儀でとりまかなわれていることを、ほこりとしているにちがいないの
前へ 次へ
全873ページ中592ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング