が、その様子を見てこっちへやって来た。
「ね、幸子さんのところ、どうしましょうね」
「え?」
 みほ子は、うっかりしていたように眉をあげて相手を見、ききかえそうとしたが、
「ああ、本当にね」
 やや浅黒い面立ちに、はっきりした表情をとり戻した。
「あなたさえよかったら、いっそ今日よっちゃいましょうか」
「ねえ。――わざわざそれだけに出て来るってのも億劫だし……じゃあ私友ちゃんにもそう云うわ」
「すみません」
 一緒に築地の芝居へ一二度行ったりしたことのある同僚の幸子が、体をわるくして一ヵ月余り休んでいた。肺がわるいらしい。やめるかもしれない。そういう噂が出ていて、みほ子へ来た手紙の様子でも、それがまるで根のないこととも思えなかった。同じ店の、ふだんどっちかというと仲よし組の三人で見舞いに行こう。そう云い出したのはもう四五日前のことなのであった。
 五時のベルが鳴って、あっちこっちでケースへ覆いがかけられはじめた。まだ僅か残っている客への礼儀から、ばたばたはしないが、それでも店員たちのそら鳴ったぞ、という気のせき立ちは店内の空気が上下とりかわって急に流れ出したような遽しさを漂わせはじめる
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