本を買うことの出来るような金をやってない。瑛子はそのことを、瞬間に母親らしい押しのつよさで頭へ閃めかせながら、
「何故そんなことおっしゃるの」
 やっぱり厭そうに云った。
「何故ってこともないが……」
 瑛子はテーブルの下で焦立ったように足袋の爪先をうごかしながらきつい調子で云った。
「順二郎の本を見ていただきにあなたと来ているのに、どこがわるいんです」
 それきり二人とも黙ってしまった。或る意味では共通な嫌悪をもって感じている者の名が出たために、黙っている間も二人の心持は一層見えない力で近づけられるようでもある。田沢がやや暫くして訊いた。
「きょうは、おかえりですか」
「さあ……」
「これっきりでかえるのはつまらない」
 タバコをもたない方の片腕をまわして自分の胸をかかえ込むような恰好をしながら田沢が圧しつけた声で云った。
「どっかへ行きましょう」
 瑛子の頬に血の色が微かにのぼった。
「…………」
「ね」
「…………」
 四辺の静けさ。乾いた書籍の紙や印刷インクからしみ出して空気を満している軽い刺戟性の匂い。質のよい石炭に焔が燃えついたような燦きが瑛子の目の裡に現れた。その目を彼女
前へ 次へ
全43ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング