ります。
ブルジョア文学の中で、志賀直哉の文学を頂点としなければならなかった「私」は、民主主義の達成の一歩毎に単数の「私」から人民的複数の「私」に展開されます。小林多喜二の時代非合法であった共産党は、今日合法政党として存在し、工場細胞は公然です。非合法だった時代の党の気の毒な官僚主義、ヒロイズム、独善などがかりに小林多喜二の「工場細胞」に反映しているならば、小林多喜二的身がまえによって――積極的に歴史の課題に答えようとする民主的文学者の行動性で、その弱点は今日の「工場細胞」の現実描写を与えられてゆくべきだと思います。そこに民主主義文学の創作方法の新しい可能性があります。労働者の生活を内側から書くということの健全な価値がある。ソヴェトの作家の活動ぶりをみれば、民主主義の達成の程度につれて一人の作家が一生の間にどんな多様な社会的経験と作品活動を可能にされているかということがよく分ります。ブルジョア作家が狭い「私」的環境に止められて、僅かな感情冒険だの偏奇の誇張などにエネルギーをついやしている時、少くとも現在民主的作家は、政治的活動の分野を解放されているし、経営内の文化活動に直接ふれること
前へ
次へ
全31ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング