「炉辺雑興」「労働雑詠」等に到って、この詩人が、小諸の農村生活の日常に結びつくことで、こんなに自然を観る態度が異って来たかとおどろくばかりのものがある。三四年前、「されば落葉と身をなして、風に吹かれて翻りつゝ」ロマンティックな文学的放浪にあった時代の作者は、『夏草』において次第に自然と自己とを平静に対置して眺めあわせることを学び、『落梅集』に来ては、人間あっての自然、人間生活によって眺め、関係されるところの自然、労働の対象としての自然を眺めることを、生活から学びとっているのである。現代の農民が野良に出てゆく時の複雑な心理を、その「労働雑詠」がとらえていないということを、きびしく云うには当らない。それらが、美化された労働・労働を眺めるもののロマンティシズムにたって謳われていることだけを云々するのは妥当を欠くであろう。藤村の歴史性、個人の境遇的な特質が、こういう風に積極的に人間と自然との結びつきを謳ってもなお歴然たるところに、未来の詩人たちへのかくされた可能なこの示唆があると思う。
 小諸で暮すようになったその年、若い詩人で塾の教師である藤村は、冬子夫人と結婚した。「小諸へ行ってから更に大
前へ 次へ
全14ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング