と身をなして、風にふかれて翻」る我身という関係において、謳っているのである。
 ロマン派の諸詩人達が西洋でも東洋でもこのんで「鷲」を題材とするのは、何と興味ある一つの通有性であろう。『若菜集』の後に出た『一葉舟』で、藤村は「鷲の歌」を抒事詩風にうたっている。ここで藤村は雄渾な自然「削りて高き巖角にしばし身をよす二羽の鷲」の、若鷲の誇高き飛翔を描き「日影にうつる雲さして行へもしれず飛ぶやかなたへ」という和歌の措辞法を巧に転化させた結びで技巧の老巧さをも示しているのであるが、「春やいづこ」にしろ、やはり『若菜集』に集められた詩と同じく、自然は作者の主観的な感懐の対象とされている。移りゆき、過ぎゆく自然の姿をいたむ心が抽象的にうたわれているのである。
『夏草』には、前の二つの詩集とちがった要素を加えて自然がうたわれ初めているのが見える。愛すべき「小兎のうた」には農村の生活、作物に対する農民の心配と小兎との関係が、人間の側の心持から、写実的に、簡素に修飾すくなくうたわれているのが私達の注目をひく。「うぐひす」には、これまでの詩の華麗流麗な綾に代る人生行路難の暗喩がロマンティックな用語につつまれ
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