まで養われた道徳意識の影響と、今まで続いて来た生活の形式の反動との力を集めて或る次の一点へ徐々に彼女を動かしていた。
自分ばかり凝視していた彼女の眼は、そろそろと自分より不幸な、より惨めな、そしてそれ等に対して、自分が無関心であったのを恥かしく思わずにはいられない一方面に転ぜられ始めたのである。
不当な圧迫や、服従の強制に対して、絶えず不満を感じていた彼女が、自分よりもっともっとそれ等の堪えがたいあらゆることに堪えて、物質的にも精神的にも劣者の位置に甘んじていなければならない者に心附いたとき、どのくらいの同情に打たれたことであろう。
そして、それ等の気の毒な人々に、自分も知らず識らず圧迫を加え、強制を加えて、まるで知らないでいたことにいかほどの悔を感じたことであったろう。
自分は仕合わせに、不正だと思ったことには、どこまでも対抗して行く力を与えられている。その反抗に対して機嫌を損じる者があれば、いくらあっても、自分はちっとも恐ろしくはないと思っていられる。けれども……。彼女はほんとに興奮せずにはいられなかった。
生命を権利も、それがたとい法律では保護され、飽くまで主張し得べく制定されてはいても、実際の生活においては、物質的、精神的により豊かな者、力強い者に、殆ど無条件で蹂躙《じゅうりん》され、屈服させられなければならない人々が、到るところに満ちているではないか。
卑怯な、卑劣な弱い者|酷《いじ》めが、公然と行われているのに、自分はどうして、平気でその仲間入りをしていたのだろう。
彼等も人であり、自分も人であるのに、一方が一方を虐げるのが、どうして正しいことだといえよう。
彼女は、忘られない印象を自分の心の上に遺して行方も分らず去った、或る一人の労働者の姿を想い浮べた。可哀そうだと思いながら、記憶から薄らいでいた、一人の少年を思い浮べた。
それ等の皆、泣いていた人々、自分が悲哀に打たれ、泣くことさえ憚るようにしてひそやかに啜泣いていた人々。
慰めてのない彼等の苦痛、軽ぜられていた生命の歎息が、無限の哀愁のうちに、ひたひたと迫って来るのを、彼女は感じずにはいられなかった。
破れた、穢い穢い上衣の肩の上に垂れて、激しく痙攣《けいれん》していたあの青い顔、深い溜息。
彼女は、記憶の中のその人に向って、
「泣くのはおやめなさい。しっかりおしなさい。一緒にどうにかして行きましょう!」
と呼びかけずにはいられなかった。
そして、あのとき、もし自分が大人だったら、そうっと彼が泣く訳を聞けるだろうのにと思った心持は、そのときよりはっきりとした解答、彼の泣いた訳も、結果も分っているという心持を伴って、一層の同情を喚び起したのである。
「彼も人間である。私も人間である。私が生きるために、彼の命を軽ずるのは正しいことか」
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狆《ちん》に縮緬の着物を着せて、お附きの人間をつけて置く人が、彼の門前で死に瀕する行倒れを放って置くのは正しいことか。
そういう人に媚びて、ほんとの同情をごまかしたり、知らない振りをするのは正しいことか。
優しい鼓舞と助力は待ち望まれている。彼等の歎息に耳をかせ。
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彼女は、書きながら、心がブーンブーンと鳴り響くような心持がした。
「弱い者、気の毒なものが虐げられるのが悪いのなら、そうでないように出来るだけやってみることに、何の躊躇がいろう。
よりよく、より正しい方へとすべては試みられなければならないのではないか、
どんな辛い目にあっても、自分は彼等のために尽す。ほんとの正しい、人間らしいいつくしみ合いに祝福あれ!」
彼女は希望に打たれて、泣き出さずにいられなかった。そして、
「ああやっと来た! やっと自分のほんとの生活が見つかった! おてんとうさま。私の神様。
私は嬉しい。ほんとに、ほんとに嬉しい」
と、躍り上るような字で書きつけた鉛筆を、投げ出した彼女は、せっかく書いた字が皆めちゃめちゃになってしまうほど、涙をこぼした。
悪霊のような煩悶や、懊悩《おうのう》のうちに埋没していた自分のほんとの生活、絶えず求め、絶えず憧れていた生活の正路が、今、この今ようやく自分に向って彼の美くしい、立派な姿を現わしたように思われていたのである。
彼女は、自分の願望を成就させるに熱中した。
寛容な、謙譲な愛によって仲よく、睦しく助け合って行く自分達を想い、心が安らかに幸福な一群が、楽しく元気よくほんとの「自分達の働き」にいそしむ様子を描きながら、自分の許されている範囲において、真剣に彼女は、出来るだけのことをして行ったのである。
これ以外には決してないと思われる仕事に対して、たとい量は少く、範囲は狭くあろうとも、彼女の真面目さは絶大であった。徹頭徹尾一生懸
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