命であった。
 そして、些細な失策や、爪ずきには決してひるまない希望を持っていたのである。
 けれども、時が経つままに、彼女の理想がどんなに薄弱なものであり、その方法や動機が、動揺しやすい基礎の上に立っていたかを、証明するような事件が、次から次へと起って来た。そして、彼女の物質的助力や、熱心にはしたつもりの助言は失敗に帰したことが明瞭に示されることにならなければならなかったのである。
 客観的の立場からみれば、それは当然来るべきものであった。それどころか、若し来なければ、彼女は恐ろしい不幸に陥らなければならなかったほど、それは意味ある、「尊い失敗」であった。
 けれども、最初のあの嬉しさに対し、希望に対し、第一に引き上げ、高められるべきはずだった多くの「彼等の魂」を、もとのままの場所からちっとも動かし得ずに、遺さなければならなかったことは、彼女にいかほどの、苦痛を感じさせ、赤面を感じさせたことだろう。
 かつて、「ああやっと来た!」と書いた言葉の前へ面を被いながら、彼女は
 達者で働いておくれ! 私の悲しい親友よ!
という、訣別の辞を与えなければならなかったのである。

        六

 まったく。悲しき親友よ!
「私はきっと今に何か捕える。どんな小さいものでもお互に喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞ待っておくれ」
 彼女は、否でも応でも、彼等に向って別れの手を振らなければならなかった。
 が、何かを捕えようとして延した片手の方角には、いったい何があったろう。
 失敗した計画が、しおしおとうなだれて行くあとについて、これこそ自分の一生を通じてするべき仕事だと思われた確信が、淋しい後姿を見せながら、今までより一層渾沌とした、深い深い霧の海の中へ、そろそろと彼の姿を没してしまうのばかりが見られる。
 そして、目前には、遺されたいろいろの問題――ほんとの愛情、善悪の対立の可不可――が、黒く押し黙って、彼女の混惑した心に、寒い陰をなげたのであった。
「私は、私の全部において失敗してしまった。大変悲しい。恥かしい思いに攻められる。そして、なおその上、失敗した思想以上に、一分も進んではいない頼りなさ、不安を感じずにはいられない。けれども、
 神よ我に強き力を与へ給え……。
 私は決して絶望はしない。絶望してはいられない。真面目な科学者は、彼の片目を盲《めしい》にした爆発物を、なお残りの隻眼で分析する勇気と、熱愛と、献身とを持つ」
 彼女は確かに失望もし、情けない恥かしさに心を満たされもした。
 けれども、極度な歓喜に燃え熾った感情が、この失策によって鎮められ、しめされて、底に非常な熱は保留されているが、触れるものを焼きつける危険な焔は押えられた今、まったく思いがけないもの――静かに落着いて、悲しげな不思議な微笑を浮べながら、
 まあ、まあ落着きなさい。え、落着きなさい。
と囁くもの――を、自分の心の中に感じたのである。それは、あの守霊でもなかったし、神様でもなかった。まして、感情が戯れに見せる空想でもなかった。
 幾重にも幾重にも厚く重り、被い包んでいた感情が燃えぬけた僅かの隙間から、始めてほんとの理性が、今、静かな動ぜぬ彼の姿を現わしたのである。
 まあ落着きなさい、それからとっくりと考えてみなさい……
 彼女は、上気《のぼ》せていた頭から、ほどよく血が冷やされるのを感じた。そして、非常にすがすがしい、新らしい、眼の中がひやひやするような心持になった彼女は、もうまごつかなかった。あっちこっちへ、駈けずりまわる周章から救われた。理性の出生は遅すぎたかもしれないが今現われてくれたことは、ほかのどのときにおいてよりも、彼女にとって幸福な、ほんとに役立たれる場合であったのである。
 彼女は微かに、自分の性格が、根本的にある変化を与えられようとしていることに気が附いた。
 自分としては、この失敗とこの理性の目覚めを伴わなければ開かれなかったと思われる方へ、非常に非常に僅かではあったが望みを見出した彼女は、或る意味においての感謝をさえ感じながら、二冊目の帳面の扉へ
 求めよ、さらば与えられん。
と、丁寧に書きつけた。そして、反抗や焦燥や、すべてほんとの心の足並みを阻害する瘴気《しょうき》の燃《た》き浄められた平静と謙譲とのうちに、とり遺された大切な問題が、考えられ始めたのである。
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「自分は、彼等を愛した。それは確かである」
けれども、その愛が不純であり、無智であり、近眼であったからこそ、こういう失敗は来たされた。それは否定出来ない。
「それなら、ほんとの愛情、ほんとの愛情に到達する段階は何か」
[#ここで字下げ終わり]
 第一頁に書かれた、その文句と向い合いながら、彼女は、黙然とせずにはいられなかった。
 ほんとの
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