地は饒なり
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)愛嬌《あいきょう》のある
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)青|蜘蛛《ぐも》が張りわたしている
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#ここから3字下げ]
*入力者注だけの行は底本に挿入したもの、行アキしない
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一
[#ここから3字下げ]
或る日、ユーラスはいつもの通り楽しそうな足取りで、森から森へ、山から山へと、薄緑色の外袍を軽くなびかせながら、さまよっていました。銀色のサンダルを履き、愛嬌《あいきょう》のある美くしい巻毛に月桂樹の葉飾りをつけた彼が、いかにも長閑《のどか》な様子で現われると、行く先々のニムフ達は、どんなことがあっても見逃すことはありません。おだやかな心持のユーラスは四人の兄弟中の誰よりも、皆に大切にされ、いとおしがられていたのです。
陽気な、疲れることなどをまるで知らないニムフの踊りの輪から、ようようぬけた彼は、涼しさを求めて、ズーッと橄欖《かんらん》の茂り合った丘を下り、野を越えて、一つの谿間《たにま》に入りました。そこはほんとに涼しくて、静かでした。岩や石の間には、夢のような苔や蘭の花が咲き満ちて、糸のように流れて行く水からは、すがすがしい香りが漂い、ゆらゆらと揺れる水草の根元を、針のように光る小魚が、嬉しそうに踊って行きます。
海にある通りの珊瑚《さんご》が、碧《あお》い水底に立派な宮殿を作り、その真中に、真珠のようなたくさんの泡に守られた、小さな小さな人魚が、紫色の髪をさやさやと坐っています。
なんという綺麗《きれい》なのでしょう。ユーラスは、すっかりびっくりしてしまいました。今まで、こんな様子を見たことのなかった彼は、まるで幻を見るような心持で、フラフラと水上の方へと歩いて行きました。
行けば行くほど広くなる谿は、いつの間にか、白楊や樫や、糸杉などがまるで、満潮時《みちしおどき》の大海のように繁って、その高浪の飛沫《しぶき》のように真白な巴旦杏《あめんどう》の花が咲きこぼれている盆地になりました。
そして、それ等の樹々の奥に、ジュピタアでもきっと御存じないに違いないほど、美くしい者を見つけたとき、ユーラスは、もう息もつけないような心持になりました。
天鵝絨《ビロード》のように生えた青草の上に、蛋白石《オパール》の台を置いて、腰をかけた、一人の乙女を囲んで、薔薇や鬱金香《チューリップ》の花が楽しそうにもたれ合い、小ざかしげな鹿や、鳩や金糸雀《カナリヤ》が、静かに待っています。
そして、台の左右には、まるで掌《てのひら》に乗れそうな体のお爺さんが二人、真赤な地に金糸で刺繍《ししゅう》をした着物を着、手には睡蓮《すいれん》の花を持って立っています。あたりには、龍涎香を千万箱も開けたような薫香に満ち、瑪瑙《めのう》や猫眼石に敷きつめられた川原には、白銀の葦《あし》が生え茂って、岩に踊った水が、五色のしぶきをあげるとき、それ等の葦は、まあ何という響を立てることでしょう。
胡蝶《こちょう》の翅《はね》を飾る、あの美くしい粉ばかりを綴ったように、日の光りぐあいでどんな色にでも見える衣を被って、渦巻く髪に真赤なてんとう虫を止らせている乙女は、やがてユーラスの見たこともないライアをとりあげました。
そして、七匹の青|蜘蛛《ぐも》が張りわたしている絃を掻き鳴らし始めると、二人のお爺さんは、睡蓮の花を静かに左や右に揺り、いっぱいに咲きこぼれている花々の蕋《ずい》からは、一人ずつの類もなく可愛らしい花の精が舞いながら現われて来ました。
目に見えない※[#「毬」の「求」の代わりに「戍」、297−4]毛《わたげ》を金色に輝やかせながら、喉を張って歌う乙女の歌について、森じゅうの木々の葉と草どもが、小波のように繰返しをつけて行く。花は舞う。草木は歌う。勢づいた流れの水は、旋律につれて躍《おど》り上り跳《は》ね上って、絶間ない霧で、天と地との間を七色に包む。
ありとあらゆるものが、魔法のような美くしいうちに、乙女の声は体の顫《ふる》える力と魅力をもって澄み上って行ったのです。
ユーラスは、半分夢中のようになりました。そして、いきなりその踊りの真中を目がけて踏み出そうとすると、今までは、なごやかに低唱していた樫の木精が、一どきに
ギワーツク、ギワーツク、カットンロー、カットンローローワラーラー……と歌い出し、彼方の霧の底から、微かな
ハッハッハッ! ホッホッホッ! という声が高まって来ると一緒に、森じゅうの木という木の葉が、波のように白い葉裏を翻しながら、彼に向って泡
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