立って来ました。
ギワーツク、ギワーツク、カットンロー、カットンロー……
ハッハッハッ! ホッホッホッ!
ユーラスは、自分が神様だったのをすっかり忘れてしまって大いそぎで逃げ出しました。そして、また次の日にいくらその谿間に違いないところをさがしてみても、あの綺麗な小川さえ見つけることができませんでした……。
[#ここで字下げ終わり]
殆どあらゆる種類の伝説と童話とが酵母となって、彼女の生活のどこの隅々にまでも、渾然《こんぜん》と漲りわたっていた果もない夢幻的空想は、今ようようその気まぐれな精力と、奇怪な光彩とを失い、小さい宝杖を持ち宝冠を戴《いただ》いた王様や女王様、箒に乗って月に飛ぶ鼻まがりの魔法使いなどは、皆足音も立てずにどこかの国へ行ってしまった。
そして、面白いお噺《はなし》のこの上なく上手な話し手としての名誉と、矜恃《きょうじ》とを失った彼女は、渾沌《こんとん》とした頭に、何かの不調和を漠然と感じる十二の子供として、夢と現実の複雑な錯綜のうちに遺されたのである。
一面紫色にかすみわたる黎明の薄光が、いつか見えない端《は》し端《ば》しから明るんで、地は地の色を草は草自身の色をとり戻すように、彼女の周囲のあらゆる事物は、まったく「いつの間にか」彼等自身の色と形とをもって、ありのまま彼女の前に現われるようになって来た。
今までは、遙か遙か高いところに光っているほどに思われた大人の世界は、自分等が見まいとしても見ずにはいられないほど、ついじきそこにある。
ただ、仔猫《こねこ》がじゃれるように遊び合っていた友達の中にも何か先《せん》には気の付かなかったいろいろなことが、珍らしい彼等の姿をチラチラと見え隠れさせる。
仕合わせに可愛がられ、正しさを奨励され、綺麗な物語りの中に育って、躊躇《ちゅうちょ》とか不安とかいうものをまるで知らなかった彼女は、自分の前へ限りもなく拡げられる、種々雑多な色と、形と音との世界に対して、まるで勇ましい探検者のように、飽くことのない興味と熱中とをもって、突き進んで行ったのである。
詳しく説明されるほどの豊富な内容は、もちろん持っていなかったにしろ、そう考えること自身が、もう既に無上の歓喜であり、憧憬である「立派な大人」という予想に鼓舞されながら、彼女は自分の囲りに起って来る、どんな些細な事物にでも注意を向けずには置かなかった。そして、それ等のことは一つ一つ皆丁寧に、彼女の心のうちで、「善いこと、正しいこと」という言葉で総括されている一つの道徳的標準と照らし合わされ、引きくらべられて、各自の価値をつけられる。
その価値は、即ち彼女の思っている「立派な人」の一分子として取り入れらるべきものであるか拒絶されるべきものであるかということなのである。
ところが、だんだんと立つうちに、彼女はまったく驚き、混乱せずにはいられないいろいろなことに出会い始めた。
赤という色は、それが赤であるかぎり、誰に見られても、どこに置かれても変りない赤であると思っていた者にとって、まったく同じその赤が、或るところでは、紫だと云われ黒だと云われ、もっとひどいときには、赤に違いない赤を見、見せながら、
これは、青ですね。
ええ、あなたがおっしゃるんだから青でしょう。青に違いありません。
と云うのを知ったことは、どれほどの意外さであり、また不快であったろう。
すべてのことを信頼し、尊重しようとして期待し、心を打ち開いていた彼女は、まったく思いもかけなかった厭なもの、悪いとほか思えないことを、事々物々の裏に、見出さなければならなかったのである。
そして、なおなお彼女の心を乱したことには、どんなにああ悪いと思うようなことも、皆決して、むき出しの悪いままではやって来ないことであった。
善さそうな声や、愛嬌のある微笑を湛えながら、それ等は優しいしとやかな姿を装うて来る。
彼女は自分の信じている人々――その人達はいつも善く正しいものだと許り思っていた人が――言葉とはまるで反対のことを平気でしているのを見た。
可哀そうがられるべきだと云われつつ、気の毒な人が堪らないような辱《はずか》しめを蒙らなければならないのを知った。
それ等のことに対して、彼女はいかほどの「感じ」を持っただろう。明かに矛盾を認める心、真正なことの裏切られる苦痛、適当な言葉を知らず、整った順序に並べることの出来るほど、複雑な頭脳を持っていなかった彼女は、何も彼にもただ感じるだけなのである。
ああ、そんなことをするものではない、彼女は黙っていられないような、感じに打たれる。そして、顔があつくなり、息の弾《はず》んで来るのを感じる。けれども、彼女はあなたのどこは、どう悪いからお止めなさいということは出来ない。自分の心が唸りを立てるほどに漲
前へ
次へ
全16ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング