も、きっと幾度かは殆ど不可抗力に近い重みをもって垂れそうになって来る通りに、彼女のちっとも緩みのない心、休息を与えられることのない心は、ときどき息が詰りそうな陰鬱を伴って沈んで来る。
 何の音もしない、何の色もない、すべての刺戟から庇護された隠遁所を求めて、悲しく四方を見まわし、萎《な》え麻痺《しび》れるようになった頭が、今にも恐ろしい断念をもって垂れそうになって来ることもある。
 けれども、そういうもう一歩という際で、彼女にまた新らしい勇気と、感激とを与えて、より雑多な刺戟の中へ振返らせるものが、彼女の感受するいろいろな感動を透した上の方から、いつも朝暁のようにすがすがしい、なごやかな力に満ちた新鮮な空気を送ってよこすものがあった。
 そのものは何なのか、彼女には解らない。
 何だかは知らないが、偉大な魂を感じ得る「心持」を与えられた彼女は、その自分が神と呼び、守霊と呼びかけて、人と人との交渉においては、どうしても満たされない絶対的服従の渇仰と、愛情とを傾け尽して敬愛しているものをも、やはり或る一つの「心持」を感じるのだとほか云いようがなかったのである。
 そして、その「心持」は明かに地上のものではなかった。自分の万事を洞察し、弱ろうとする生活の焔に、ちょうどそのときというときに適当な油を注ぎかけながら、一生の間自分を見守り、叱※[#「口+它」、読みは「た」、第3水準1−14−88、327−4]し鼓舞して「下さる」ものなのである。美くしい月光の揺曳《ようえい》のうちにも、光輝燦然たる太陽のうち、または木や草や、一本の苔にまでも宿っている彼女の守霊は、あらゆる時と場所との規則を超脱して、泣いて行く彼女を愛撫し、激昂に震える彼女を静かに、なだめるのである。
 心が暗く、陰気に沈むごとに、彼女は唯一の避難所であり礼拝所である美くしい木立の茂みのうちに坐って、幾度輝やかしい守霊の鼓舞を感じたことであろう。
 幹と枝々との麗わしい均斉、軟らかな輪郭と、その密度によってところどころの変化をもつ静かな緑色の群葉に飾られた樹木は、光線の工合によって、細密な樹皮の凹凸を、さながら活動する群集のように見せながら、影と陰との錯綜、直線と曲線との微妙な縺れ合いに、ただ、彼等のみがもつ静粛な、けれどもどんな律動をも包蔵した力の調和を示している。
 高い上の方の洞に寄生木《やどりぎ》の育っている、大きな大きな欅《けやき》の根元に倚《よ》りかかりながら、彼女はなだらかな起伏をもって続いているこの柔かい草に被われた地の奥を想う。
 縦横に行き違っている太い、細い、樹々の根の網の間には、無数の虫螻《むしけら》が、或は暖く蟄し、或はそろそろと彼等の殻を脱ぎかけ、落積った枯葉の厚い層の奥には、青白いまぼろしのような彼等の子孫が、音もない揺籃《ようらん》の夢にまどろんでいるだろう。
 掘り出されない数限りない宝石や化石の底を洗って、サラサラ、サラサラとせせらぐ水。
 絶えず燃えくるめき、うなりを立てる不思議な焔。
 その熱と、その水とに潤されて、地の濃やかな肌からは湿っぽい、なごやかな薫りが立ちのぼり、老木の切株から、なよなよと萌え出した優雅な蘖《ひこばえ》の葉は、微かな微かな空気の流動と自分の鼓動とのしおらしい合奏につれて、目にもとまらぬ舞を舞う。
 この到らぬ隈もない音と音との調和、物と影との離れることのない睦まじい結合を繞《めぐ》って、ゆるやかに脈打つ生命の力を感じるとき。彼女は祈らずにはいられない感動に打たれるのである。
 霊感にさほど遠くない感情の火花が、美くしく彼女の胸の中に輝きわたる。
 そして、守霊は無言のうちに、生きることの美くしさ、努力の光栄を、彼女の魂に吹きこむのである。
 神よ、我に不断の力を与え給え……。
 明日という日が、また希望を盛り返す。
 彼女は、もう決して辛いものではなくなった独りのうちに静かに浸って、与えられた自らの生命の多種多様な力の現れと、僅かずつ育って行く心とに、謙譲な愛に満ちた奉仕を感じるのであった。

 かようにして、箇我のうちにまったく閉じこもった彼女の生活は、ちょうど曇った夏の夜のような様子で過ぎて行った。折々鋭い稲妻の閃光が暗い闇を劈《さ》いて一瞬の間、周囲を青白い輝きの中に包みはしても、光りの消えたと同時に、またその暗い闇がすべてを領してしまう。
 それと同様に、ときどきは、いかほど熾《さか》んな感激の焔に照らされはしても、彼女の生活の元来は暗かった。そして、夏の夜がそうである通りに、闇とはいっても、微かにおぼろに、物の形、姿だけは浮んで見えるほの明りに足元をさぐりさぐり、彼女はより明るみへ、より輝きへと、歩を向けて行っていたのである。
 そして、彼女の心附かないうちに、生活の律動は、読み物の影響と、或る程度
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング