ました。世の中によくある通り、或る標線からちょいとでも頭を出すものがあると、その価値を考える暇もなくびっくりし、まごついて、大急ぎで擲《たた》きつけるような人々を憚《はばか》って、擲きつけられるのをこわがって、私の道を曲げ、怯《ひる》んではいられません。
 或る程度まで達するうちには、この無智な、狭小な魂の所有者である自分は、たくさんの苦痛と涙と、悔恨とに遭遇しなければならないのは、明かに予知されます。茫漠たる原野に、一粒ずつの金剛砂を求めて行くような労力と、収穫の著しい差異も、覚悟しています。けれども、ほんとにけれども、たといそれがどんなにささやかなものであり、目立たぬものであっても、
   真理は真理なりという効益あるに非ずや
という、尊い言葉が私を失望させは致しません。
   真理は真理なりという効益あるに非ずや
 そうです。ほんとにそうです。私は、その何ものにも、彼の価値を減少させられることのない真理を、一つでも多く見出し得るように、努力し、緊張して行かなければならないのではありますまいか。
 私はもう、あの人がどう云ったとか、この人がこんなことを云ったとかいう些細なことに、一々寄路をしたり、云わないようにして下さいとか、私はこう思いますと弁解してはいられません。
 思いたいように人は思っていて、ようございます。
 いろいろに思う人の言葉の中に、私のほんとの価値があるのでもなく、心をたのんで置くのでありません。
 私は私なのです。それ故私の一生を駄目にするのも、価値をあらせるのも、皆私次第なのだと思うことは、間違っていましょうか。
 自分が尊いと思うものの前には、私はいつでも膝を折り、礼拝する謙譲さをもっています。より偉大なもの、よりよいもの、美くしいものに、私は殆ど貪婪《どんらん》なような渇仰をもっています。
 けれども、不正だと思うものの前には、私はどんなことがあっても頭を垂れることはありますまい。臆病になることもありますまい。
 ただ、一度ほかない私の一生を、不正なものに穢されるのは、何といってもあまりもったいないことではないでしょうか、私は、よくなれるかもしれないものを、悪いことの中へ投げこんでしまう勇気はありません。私は、ただよりよくありたいためにばかり生きています。考えています。そして苦しんでいるのです。
 ここまで来て、私は、何だかあまり興奮しているのに心附きました。自分のことばかり云っていて、何だか少し極りの悪いような心持が致します。
 けれども、云いたいだけを云い、書きたいだけを書いてあげられ、見て戴ける方は、あなた以外にない私に、どうぞ思うままを云わせて下さいまし。
 そして、この燃焼が無駄に消えないように、お祈り下さいませ。お目にかかりたいと思っております。

 手紙はここで終っている。
 かような心の状態にあった彼女は、自分の周囲の総体的の運動とは、まるで違った方向に、彼女の路を踏もうとしていた。
 それ故、その総体的の方向を変化させる力などは、もちろん持たなかった彼女は、当然来るべき孤独のうちに、否《いや》でも応《おう》でも自らを見出さなければならなかったのである。

        五

  人には自己なる領地より大なる領地あることなし。
  而して汝孤ならば汝は全く自らのものたるべし。
                       レオナルド・ダ・ヴィンチ。
[#ここから1字下げ]
それは真理だろう。
けれども、これほど貧しい頭を持ち、これほど磨かれない魂の自覚に苦しめられながら、それを満たすために、輝やかせるために、自分は独りであらゆる破調に堪えて行かなければならないのか……
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は実に悠久な悲哀に心を打たれた。
 けれども、その悲哀は自分の心から勇気を抜き去ったり、疲れを覚えさせたりするような悲しみではなく、かえって、心に底力を与え、雄々しさを添えるものであることを彼女は感じた。
 そして、無限に起って来るべき不調和と、衝突とに向って、それが必然なものであり、止を得ないものであるなら、どこまでも当って、自分の路を開いて行こうとする決心が、しっかりと揺がない根を彼女の心に下したのであった。
 どんなことが来ようと、自分は決して顔をそむけまいという意志は強かった。
 先達《せんだつ》のない山路を、どうにかして、一歩でも昇ろうとする努力は確かに勇ましかった。
 けれども、その不断の力の緊張は、やがて驚くべき苦痛をもって現われて来たのである。
 両手を左右に拡げることを、毎日の間に幾度かしている。けれども、それを拡げたままで五分保っていなければならない苦しさは、ちょっと考えると雑作のない単純な運動とも思われない量をもっている。
 上げたときと同じにしておこうと思って
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