んだんと勢を得て来たのである。
「私は、鍵を与えられた。それをどう使い、どれほどの宝物を見出すかは、私にまかせられてある。それは確かだ」
 いつもの洋罫紙へ赤の圏点を打って彼女はまたこう書いた。
「あの美くしい層雲を見よ。地上に咲き満ちる花と、瞬く小石と、熟れて行く穀物の豊饒を思え。希望の精霊は、大気とともに顫う真珠の角笛を吹く……」
 けれども、そう書き終るか終らないうちに、苦痛の第一がやって来た。彼女は、幸福に優しく抱擁される代りに、恐ろしく冷やかに刺々《とげとげ》しい不調和と面接し、永い永い道連れとならなければならなかったのである。
 以前より、自分の正しいと信じるところに勇ましくなった彼女は、あなたはどう思いますという問に対して、正直に、私はこう思いますということを述べた。自分の心にきいて、恥かしい理由のないことは、どしどしとして行った。自分では、何でもないと思うそれ等のことは、まったく意外なことに皆、行く先々で衝突する何物かをもっていたのである。
 活溌に、希望に満ちて、スタスタと歩いて行った彼女は思いがけないところで、牆壁《しょうへき》に遮られた。
 始めの一二度は、おや、ここを行ってはいけないのかしらんと思って、別に不思議を感じなかった彼女も、それが行く先々、どの方向にもつきまわっているのに気がついたときには、ハッと思わずにはいられなかった。
 一体、なぜこのように自分の進路は、いつもいつも阻止されなければならないのだろう。
 彼女は畏怖と失望に混乱した心持で、その断《き》れ目もなく続いている牆壁を観察し始めたのである。
 そして、これは、お前達を不仕合わせな目に合わせないため、よく育ててやりたいために親切に作られたものであるという説明を、或るときは優しい愛撫とともに、或るときは激しい威嚇を伴って繰返し繰返しとかれたにも拘らず、彼女はその言葉、その態度、その理由のうちに、服従することの出来ない多くの自家撞着を発見した。
 どう考えても、臆病な妥協と、利害関係のある周囲への阿諛《あゆ》――彼女自身の言葉で云えば、あるべからざるもろもろの曖昧さに根を置いていることを感じずにはいられなくなった。と同時に、そんなものに自分を遮られて、行くべきところへ行かないでしまうことは、どうして出来よう、あくまで進め、そこから自分の路は開ける。またきっと開いてみせるぞ! という反抗が、猛然と胸のうちに湧いて来たのである。
 失望に代る何か一種の激しい緊張に、彼女は振い立った。
 進め! 勇ましく汝の道を行け。心が鬨《とき》の声をあげた。そして、彼女の道を遮り行く手を拒むあらゆるものに向って戦いが宣せられたのである。
 これから、彼女にはまるで理由の分らなかった自分と周囲との不調和、内から湧こうとする力と、外から箍《たが》をかけて置こうとする力との、恐ろしい揉み合いの日が続いたのである。
 個人的傾向と、一般的方則の衝突。誰でも感じなければならないこの不調和は、主観のみの世界に閉じこもって、客観的な妥当性をまるで具備しない魂の燃え上るがまま、美点も欠点も自分の傾向の赴くままに従っていた彼女の上において、特に著しかったのである。
 けれども、生れたばかりの赤子が、どうして彼の赤子であることを自覚しよう。それと同様に、すべての内在的原因を自覚し得ない彼女は、ただ衝突する周囲の者を見、自分の延そうとする手を否応なしに折り曲げさせようとするもののみを感じたのである。

        四

 ―月―日
「真面目であれと云われる。それだのにほんとの真面目さは圧《お》し殺され、自信をもって進めと云われつつ、引き戻されるのはなぜか」
 彼女のその頃のノートは、こういう種類の言葉に満たされてある。
「自分の一生懸命な質問は、明かに弱味を見せたくなさ、尊敬を失いたくなさに根差している虚勢で、お為ごかしの否定を与えられ、また或る種の人々は、彼の口軽な、頓智のいい戯談《じょうだん》で、巧にはぐらかしてしまう。それで自分がすまされると思うのか、今に忘れるだろうとでも思って、そんな当座まぎれをするのだろうか、非常に、非常に不愉快な心持がする。

 経験の尊ぶべきことについて、屡々語られる。真に経験は尊い。けれども、その尊ばるべき経験は、いつも年長者の経験のみに限られているのはなぜか、我々の経験をすべて参考として、お前達自身の経験をより深く、より価値のあるものとせよとは、なぜ云われないのか。
 ―月―日
 あまりに、あまりに婉曲《えんきょく》な辞令、便宜上の小手段、黙契をもって交換的にする尊敬の庇護、私は皆、嫌いだ。
 広い広い野原に行きたい。大きな声で倒れるまで叫んで駈けまわりたい。大鷲の双翼を我に与えよ」
 けれども、これ等の断片的の文句よりは、どうかして出さ
前へ 次へ
全16ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング