持って駈けつけた彼女は、失望せずにはいられなかった。
 耳を傾けてみると、もうびっくりするほど、あっちこっちで人格の力、人格の修養、完成という言葉が叫ばれている。ほんとに大きな、怒ったような声や、鋭い、刺すような声が、話すのではなくて叫んでいる。
 けれども、なぜだか、彼女は自分の聞きたい言葉と声とは一つも見出せなかったのである。
 あまり、荒々しい声なので、言葉のうちには始終宿っているはずのほんとの「人格の力」は恐《こ》わかったり、極りが悪かったりして、皆どこかへ逃げ出してしまっているようにも思われる。
 彼女は、もう叫ばれている声に耳を貸そうとは思われなくなった。ただ読むばかり。ただ読むばかりが自分にほんとのことを教え、彼の声、彼の言葉で親切に、せきもせず、引き延しもせずに教えてくれることを知っている彼女は、自分の脳力の続くかぎり、手に触れるほどの書籍の中から、ほんとの偉い人の姿を見出そうとしたのである。
 そこには、実にあまたの尊い人々の生活が、強制せぬ態度と麗わしい言葉とで語られていた。
 いかほどの迫害を受けても、ただ、神の恩寵のみを感じて、想像も及ばない忍従と愛とのうちに神を見、神とともに語った聖者。
 または、悲壮な先駆者として、彼の生命を自然律のあらゆる必然のうちに投じて、天と地との一切のものを知り、そして愛し得た選まれた人。
 それ等の涙をこぼさずにはいられなかったほど崇高な、力強い、まったく何物にも動かされない人格の力を、燦然《さんぜん》と今日にまで輝やかせている人々は、彼等の未来に、どんな約束をも欲していなかったことが、先ず彼女を驚かせ、感歎させた。
 それは偉い人の中にでも、やっと歩けるようになったばかりのときから、私は何になる! と云って、その通りなった人もあろうけれども、彼女が、自分もこうあったらと思う種類の偉い人は、皆黙っていた。
 彼等は自分の行手に何の影像も持っていなかった。後の時代の者達に、大聖人であると思わせようとした人でも、人類の光栄になって見せるぞと云った人でもなかった。
 彼等は、その熄滅することのない勇気と、探究の努力とを、「今」というあらゆるときにおいて、徹底させて行ったばかりなのである。
 いつも謙譲に、その人々は美くしいものを、讃《ほ》め、尊ぶことを知っていたと同時に、讃めるにも、尊ぶにも「彼自身」をなくして出来るだけ多勢群れている方へと、向う見ずに走って行くような人ではなかった。
 ほんとに小さな者の前で、急に膨れ上るかと思うと、真に偉くもない、ただ偉そうな外見ばかりの者の前へ出ては、針の先ほどに縮まって声も出さないような人達ではなかった。
 けれども、どんな些細なことをも感じ驚異し得る非常に微妙な感情をもって、一粒の涙も、見えるか見えない微笑をも見逃すことはなかった。
 彼女は、一つ一つあげていても限りのないほどいろいろの、立派な「点」を知った。ひとりでに頭が下らずにはいられない尊い心の「点」を感じることが出来た。
 けれども、却って、偉い人格という、漠然と心に出来ていた型はくずれて、無辺在な光明の微分子のうちに溶けこんでしまうのを感じたのである。
 無辺在な光明……。
 ほんとに彼女は、もう「偉い人というものは」などという言葉で考えたり探したりしていることは出来なくなってしまった。
 偉大な人々の、実に数えきれないほどたくさんのそれ等の美点と美点とが、変化窮りない自由さと、力とにおいて、結合し、融合したときに発する光明の連続が、今、自分にこのような感動を与える。彼女は、彼等が、ただ正直な人間というものでもなく、意志の強いといわれるだけでもないことに気が附いたのである。
 偉い人の力を捕えて、掌の中で解体し、それをまた組立て、放してやるようなことは、決して出来ない。
 ただ、感じ得る者、いつも謙譲であり真面目であり、受け入れるだけの力のある者のみが感じ得るものであるのに、心附いたのである。
 かように、彼女が近くへよって、よく視ようとした偉い人々は、却って広さと遠さの無限のうちへ飛翔《ひしょう》してしまったけれども、まったく不思議なことには、何か偉大な魂を感じ得るものが彼女に遺されたのである。それが、感情の一部分なのか、理性の一面なのか、まるで解らなかったけれども、とにかく、彼女はその心持から、ほんとの人間の生活にとって、「あるべきこと」と、「あるべからざること」とが、或る程度まで判断されるようになった。
 そして、いつともなく相当な言葉数を知って来た彼女は、自分のこれからを「どうしたらいいだろう」とかつて書いた心細さからは、たとい極く僅かではあったが、救われた。
 一生懸命に努力して行き、正しいことから、より正しいことへと進んでさえ行けば、という希望が彼女の心のうちでだ
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