ほんとの自分が泣けば、一緒に声を合わせて泣く自分の影ではない。いつも、書いて行くものである。自分が泣いているときでも、憤っているときでも、「彼女は、今理由の分らない悲しみ、悲しみだか何だか分らない一つの心持に泣いている……」と書いて行くものである。
 これが、彼女に漠然と理想的人格の価値を感じさせ、欣慕《きんぼ》と到達の願望を起させ、また信仰の胚種を、その核の中で微かに膨らせて行った。
 それは何だったのだろう。後から考えてもよく分らなかったが、多分、微かに目醒めた理性が、より多くの空想と、感情とに包まれて、全然空想だとはいえず、全然理性だとはいえない、この一の現れとなったのであろう。
 かようにして、自由にされ、広い世間と僅かずつ触れる機会の多くなるにつれて、かなり急速に彼女の箇性が形作られて行った。――というより、箇性をやがて作る種々雑多な片鱗が、あっちから、こっちから或は自然に来、或は拾い集められ始めたのだという方が、適当であろう。とにかく、彼女ははっきり「我」というものについて考えるようになって来た。
 私はどんな人にならなければならないだろう、そして、どんな人が、ほんとに立派な人なのだろう。
 おかあさま知っていらっしゃるか! 先生は知っていらっしゃるか!
 彼女は、こういう意味の言葉を、書いた。そして、それを机の上に拡げて、今まで決して聞かなかったはずのない「偉い人」を考え、探し始めたのであった。
 偉い人、彼女は度々その響を聞いたことはある。偉い人におなりなさい。立派な人にならなければいけません。
 けれども、今、こうやって一体どういうのかと自分の頭に訊いてみると、脳髄はまごつきながら、やっぱり小さい声で、
 一体どういうのだか……
とつぶやき返すばかりである。
 もちろん彼女は、正行の母、橘姫などが感歎すべき婦人として、小学校にいたときから屡々話されたのは覚えてい、知っている。
 けれども、彼女は自分とその人々との時代を隔てている「時」をとりのけにして考えることは出来なかった。
 あの時代、あのときとの間に幾百年の過ぎている今、何んでも変化し、進んでいる今と、今から先きのもっともっと違うはずの幾十年かの間に、「あのときのあの事件」が再び起って、自分をそれと同様の境遇に置くだろうことは、考えてもみられなかった。
 それ故、彼女の理論は、生涯のすべての境遇の変化にも、時代の進行にもなお動かされずに、自分の一生を貫くべき、「ほんとの人格の力」が見出されなければならなかった。自分が今も持たねばならず、学校を出てからも、死ぬときまでも持っていなければならない力が、要求されたのである。
 一生の基となるもの、自分をほんとに偉くするもの、それは何だろう。
 いくら考えても、答はやはり同じ、それは何だろうである。
 彼女は、また今までよりもっと恐ろしい、もっともっと果もない疑いにぶつかった。追い払われていた、不仕合な悲しみや、辛さや、恐ろしさが、またソロソロと這い出して来た。どうしたらいいだろう。
 洋罫紙《ようけいし》の綴じたのに、十月――日と日附けをして書きながら、彼女は、カアッと眩《まぶ》しいように明るかった自分の上に、また暗い、冷たい陰がさして来るのを感じた。
  すぐよかに、いみじかれ
     我が乙女子よ……。
 声高な独唱につれて、無意識に口をそろえ声を張りあげて
  すぐよかに、いみじかれ
     わが乙女子よ……。
と合唱の繰返しをつけている最中に、彼女にはフト、その「すぐよか」「いみじき」という言葉の意味が何だかはっきり分らないようになった。知っているつもりだったのに、何も浮んで来ない。ちっとも分らない。
 驚いて、心に不安と混乱とを感じながら、自分の前に、隣りに、または後に、美くしい声を張って楽しそうに歌いつづけて行く仲間の顔を見まわす。そのときの、その通りの心持が今、彼女の胸を満たしたのである。

        三

 偉い人というのは……、
 どこかで声が聞える。彼女は耳を澄ませ、大急ぎでその方に駈けつける。
 そして、一生懸命に聞こうとするけれども、よく聞え、よく透ったのは最初のその一句だけで、後の大切だと思われるところは、何だか声が小さかったり、言葉が混雑していたりして、いくら気をつけても、ちゃんとした意味が飲みこめない。
 これでは困ると思ってしまいに、体を動かしたり、目を瞑ったりして聞きしめようとしているうちに、話し手は、また、一番初めと同じ勢のいい、賑やかな声で、
 それ故、あなたがたも、皆修養して、立派な人格の所有者とならなければなりません。
と云うと、待ちかまえていたような、拍手が起る。お辞儀をする。そして、お話はもうすんでしまったのである。
 せっかく気を張りきって、多くの期待を
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