見えないような眼を両手でこすりながら、物珍らしい周囲を見まわした。
美しい校舎や、森や。しゃんとした友達や、面白い学課や……。
古ぼけて歪み、暗くて塵だらけだった建物の中で、餓え渇いて、ガツガツと歯をならしていたあらゆる感情、まったくあらゆる感情とほか云いようのない種々様々な感情の渇仰が、皆一どきに満たされ、潤されるのを感じたのであった。
どれをどうと説明出来ないほど、生活の豊富と、活動の光栄に打たれた。
隅から隅までたんのう[#「たんのう」に傍点]した彼女は、今までの周囲と比較すれば、問題にもならないほどの趣味性の差異が齎らすどこともいわれない大らかな雰囲気のうちに、ホコッと眼を瞑《つぶ》り、頭を垂れて浸って行ったのである。
不自然な重圧をようようとりのけられた彼女の無邪気さ、絶対的な従順さが、天にも舞い昇りそうな意気とともに、躍り上り、跳ね上りながら奔流し始めたのである。
一日中で一番長い放課時間に、彼女はよく、校舎の後を抱えるようにしてこんもりと茂り、いつも青々としている小高い森へ入って行った。
そこから少し低くなっている彼方を見渡すと、白い小砂利を敷いた細道を越えた向うには、馬ごやしの厚い叢に縁取りされた数列の花床と、手入れの行き届いた果樹がある。
湿りけのぬけない煉瓦が、柔らかな赤茶色に光って見える建物の傍に、花をつけた蜜柑が芳しい影をなげ、パンジー、アネモネ、ヒヤシンスと、美くしい色と色とを反映させながら咲き続いた花壇の果は、ズーッと開いて、折々こぼれるような笑声につれて、まあるい蹴鞠《けまり》の音を、彼方の空へ反響させる広場が、心持の悪くないほどの薄さで周囲の空気を濁らせながら、その一端を見せている。
暖く晴れわたった空を画して、くっきりと見える長い校舎の屋根、その上に懸ってまどろんでいるような雲の、柔かい煙りのような輪郭。
地殻から立ちのぼるあらゆる騒音や楽音、芳香と穢臭とは、皆その雲と空との間にほんのりと立ちこめて、コロコロ、コロコロと楽しそうにころがりながら、春の太陽の囲りを運行する自分達の住家を、いつも包んでいるように思われる。
二本の槲《かしわ》の古木の間に坐りながら、大気とともに満ち渡るなごやかな、ほっこりとした安らかさを深く深く呼吸する彼女は、髪の毛の先々にまで命の有難さを感じずにはいられなかった。
ほんとにこれほどの仕合わせ……。
彼女は、まるで暗闇の中で路を見失ったように、がっかりし、希望がなくなっていた先頃の自分を想い出すと、我ながら可哀そうになって、つい涙をこぼしながらも、あらゆる歓びと希望がより一層よい形で蘇返《よみがえ》って来た今の嬉しさに泣く下から微笑を押えることが出来なかったのである。
まったく、彼女は復活した。
確かに順調ではなかった体の工合も、すっかりよくなって、毎晩恐ろしい夢に魘《うな》されることもなく、青かった顔にもいい色に血が潮《さ》して来た。
そして、自分でもびっくりするほど力の増した彼女は、健康状態が非常にいいとき、誰でも感じる通り、あのピンピンとひとりでに手足が動くような活気に満ちながら、踊るように学校に行き、行ったときと同じ元気で帰って来る。
疲れだの、倦怠だのというものは、このときの彼女の指一本に触れることも出来なかったのである。
よく眠り、よく動きながら、彼女は一生懸命に勉強した。
ついこの間までは、まるで解りそうもなかった、大変難かしそうだと思っていた本も、読もうとさえすれば、必ず或る程度までは理解される。
まるで、彼女は脳髄がいいスポンジのような心持がせずにはいられなかった。たくさん読み、たくさん考えているときの、あの頭が快く一杯になって、額の辺が堅く張って来る心持。心には何かが確かに遺されたという自覚。
一方で理性がそろそろと、必要な訓練をほどこされているうちに、彼女の空想は次第次第に現実を基礎とした上に、また彼特有の王国を築いた。
非常に鋭敏になった聴覚と視覚とが、かつては童話的興味の枯れることない源泉となっていた自然現象の全部のうちに、現実を基礎としたいろいろの神秘を見出し、自分自身を三人称で考える癖が増して来た。
「彼女は今、太い毛糸針のように光る槇《まき》の葉を見ながら、或ることを考えている……」
槇の葉が美くしく光るのを見ながら、今考えている自分を、また考えている自分がある。
「こんなにたくさんの葉を皆間違いなく、その枝々につけ、こうやってただこぼれた麦粒から、こんなに生き生きとした、美しい立派な芽を出させるものは何だろう、彼女は、白いなよやかな根元から、短かく立つ陽炎《かげろう》を眺めながら考えている」
考えの進歩につれて、彼女は自分の頭の中へ書いて行く。
けれども、この第二の自分は、先のように
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