ながら、無限の韻律に顫える万物の神秘に、過ぎ去った夢の影を追うのであった。

        二

 遠い遠い昔の幾百年かの間、我々の祖先の人々が思っていた通りに、あらゆる感情は、ただ胸によってのみ感受され、発動されるものだと仮定すれば、この時代の彼女の全生活は、その感情の宮殿の圏外には、一歩も踏み出さない範囲において進行していたのである。
「考えること」と、「感じること」とは、まったく混同して、彼女自身は、一生懸命に頭で考えたと思っていることも、よく調べてみれば「ただそうだと胸が感じた」ことというに過ぎなかった。
 それ故、あの人のすることは悪い、とか善いとか云うのは、その人の行為が最初、彼女に与えた感動の種類で定められるのである。
 一度、ああ、あの人はあんな下等なことをする! と思ったらその人はもう彼女から拒まれてしまう。
 そして、その人の次の行為がどんなに美しくても、優しくても、いっさい振向かれない心持をもっていた彼女は、従って自分の交際する範囲を狭めて行くのは必然である。
 せっかく、この人こそ自分の友達だと思っていた人々とも、どうしても一致出来ない岐《わか》れ目に来ては、さようならを云わなければならない淋しさ。その淋しさに心を打たれる弱い自分に反抗する心持とが、他のいろいろな不調和と一緒になって、彼女を次第に不自然な厭人的傾向に導いて行った。
 そして、人と話し、人と笑いしている間に、いつともなく緩められて行くいろいろの感情、特に空想や、漠然とした哀愁、憤懣《ふんまん》などは、皆彼女の内へ内へとめりこんで来、そのどうにかならずにいられない勢が、彼女の現在の生活からは最も遠い、未知の世界である「死」の領内へ向って、流れ出すのであった。
 育とうとする力、延びようとする力に充満している彼女のすべての生理状態は、自然的な死という現象からは、かなりの隔りをもっている。
 今にさし迫ったことではないという、潜在的な余裕、安心と、彼女の空想によって神秘化され、何かしら魅惑的な色彩をほどこされている死そのものの概念とが、どんな幸福な若者の心をも、一度は必ず訪れるに違いない感傷的な憂愁の力をかりて、驚くべき劇を描き出すのである。
 その幻想の世界において、彼女はいつの間にかきっと二人になっている。
 確かに呼吸が止まり冷たい、堅い骸《むくろ》となって横わっている自分の前では、もう一人のこれも自分には違いない自分が、厭な辛いことを健気《けなげ》にも最後まで忍び、雄々しい生涯を終った自らを、感歎し、賞揚し追慕して、潸然《さんぜん》と涙を流している……。
 こんな、不合理なことを、彼女自身は何の矛盾も感ぜずに体ごと、その涙の中に沈潜して行くことが出来たのである。
 実に屡々《しばしば》、これと大差ない奇怪な感情の陶酔に貫かれながら、どこにも統一のない彼女の生活は、だんだん彼女の年と、境遇とに比べて、有り得べからざる陰気さの中に、深入りして行った。
 下手な、曲ったような字で、心が唸りを立てるほど漲って来る当もない憤激や、自分にほか分らない悲歎を書きつけながら、彼女は自分が世界中に「唯一人悩める者」のような心持がしていたのである。
 かように、いつの間にか彼女の心のどこかで育っていた、理智と感情との権衡を失した力の争闘は、幾多の朦朧《もうろう》とした煩悶を産んで、小学時代の最後の一年間に、子供らしい無邪気さや、活気や、勇猛心は、皆彼女のどこからも消滅してしまったように見えていた。
 けれども有難いことには、まだ倦怠を知らぬ活き活きとした生理的活動が、あの弾力に満ちた発育力のうちに、それ等の尊い感情の根元だけを辛うじて暖く大切に保存していてくれた。
 何か一つの転機が、彼女の上に新らしい刺戟と感動とを齎《もたら》しさえすれば、一旦は霜枯れたそれ等の華も、目覚ましい色をもって咲き満ちる可能性が、一つ一つの細胞の奥に巣籠っていたのである。
 そして、この非常に要求されていた一転機として、彼女の女学校入学が、殆ど予想外の効力をもったのであった。
 どんなに陰気になっていても、彼女の年の持つ単純さが、新らしく彼女を取り繞った周囲に対して、驚くべき好奇心、探究心を誘い出し、ことごとに満たされ、ことごとに適度な緊張となる新規な習慣や規則が、実に無量の鼓舞と慰安とを与えたのである。
 何だか漫然とした不安や焦躁を感じて、泣きむずかっていた子供を、一歩門の外へ連れ出してやれば、新らしい、珍らしい刺戟に今まで胸に満ちていたそれ等の感情を皆一掃されてしまう。
 もちろん、これよりは深く、複雑な苦痛であったには違いないが、その苦痛を忘れさせるには十分な興味が、彼女にも、今与えられたのである。
 彼女は、始めてホッとした。
 そして、満足の溜息をつき、何だかよく
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