自分を破いて行こうとする情熱、それを表現し文学化してゆく文学上の諸要件での一致点の発見のことではないだろうか。
何の力にすがって、刻々の自分の殼を破ってゆくかと云えば、人生的文学的な自己省察であり、そのようなきびしいたゆみない自己省察は人間の生きつづける歴史の継続としてのこの人生と文学とに期するところがなければ生じるものではないであろう。大いに期するところは、人類と文学との継続の鎖に更に輝やかしい一環を寄与したい心であると思う。その心の動因は、人間精神の成長とその合理への方向への信頼であり、他の面からそのことを云えば、不合理なものへの承服しがたさへの確信と、その承服しがたき事象の裡から、僅かなりともより承服しやすき方向への推進の力づくし、心づくしと云うことが出来る。
私たちが生活の間に経る波は激しく、潮はまことに急速で、昨今は、この一ヵ月で生活感情も随分変化して来ている有様である。その波濤を、ああしこうし工夫して凌ぎゆくわけだが、そのようにして生活して行くというだけでは、殆ど未だ人間経験というところまでも収穫されていないと云える。そのような日暮しから受ける心持、そのような日暮しに向ってゆく自分の心の動きよう、そういう生活万端の在りようと自分のつくる文学のありよう、そういう関係が深く感情の底にまでふれて探られ、見直され、整理され、そこで初めて人間精神の経つつある歴史となるし、文学の歴史ともなり得る。
昭和十四年度の文学の総決算というとき、多くの人によって、この二三年混乱していた文学がやや落付いて来た、内省的になって来たと云われていた。それは或る意味では実際に即した概括であったと思う。けれども、内省的ということも、主として各作家の主観の内で云われる現象であって客観的に現代文学の内省がより鋭くされたということは、たやすく云い切れないのではないかと思った。
その一つの原因は、婦人作家の擡頭ということにつれて、諸家の見解がのべられているのに、何となく十分現実を掘り下げていない感銘を受けたからでもある。
婦人作家がこの一年に比較的数多い作品を発表もしたのは一般に高まった文学性への要求と婦人作家たちの共通性である芸術至上の傾向によるものであるとされ、それは、男の作家がこの二三年の世相の推移につれ、その社会性の積極さの故に陥った混乱に対置して、結局は婦人作家の社会性の欠如
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング