の故と否定的に総括されていた。けれども、果してそれだけで、現実のいりくんだ関係が云いつくされているだろうか。男の作家の社会性の積極さということもむずかしい問題であって、あの波この波にすぐ反応を呈してそれに吸引されるままになったと云うことを指しているのでないことは明かなわけである。単純な適応を積極性と呼ばないとすれば、自身の芸術境に忠実であろうとする作家、例えば川端康成というような作家の本年度の芸術が、ゆたかな社会性に充たされていただろうか。武田麟太郎の作品が社会性において一歩をすすめ得ていたであろうか。
婦人作家が社会性を欠いているとして、そういう作品が文壇にある評価をまきおこしたとすれば、文学の問題としては、そのことに於てやはり男の作家の今日の文学の社会的な実質とも直接かかわっていることだと思われる。婦人作家のそういう存在でさえも何かを文学にもたらしたように思われたのならば、その意味では男の作家の文学も、日本の今日の同じ空の下の低さにおかれているというわけではないだろうか。文化の姿としてその点での大局からの究明がされてこそ初めて男の作家の社会性のひろさ、確さも云い得るのである。それに、現代文学の現実のなかではあらましに、婦人作家と総括は出来ず、婦人作家の中にも、社会的な芸術の素質でそれぞれこまかい相異がある。女というひと色で云えないことは、男の作家を男というひといろで云えないと全く同じことだと思う。未だ婦人作家というと、女というところで概括し、こんな場合何か男から女に向って物を云うという風に表現されて来るところも、文学の領域でさえそれの怪しまれないことも私たちが今日に持っている文化の性質を語っていると思う。
これからの一年はまさしく十年に相当するばかりでなく、その飛躍の質では、紀元二千六百年の日本にして初めて経験する社会生活の諸相であろうと思う。
文学は、その現実にどこまでしっかりとくッついて、その真の姿を描き出して行き得るであろうか。どこまで人間精神の経歴としてその中に沈潜して省察し、収穫し、芸術化してゆくであろうか。このことは、作品のなかにトピックとして或は題材として世相を盛るということよりは遙にむずかしく深く、そして文学を文学たらしめるものであるのだと思う。[#地付き]〔一九四〇年二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
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