方法であるかもしれません。
併し、或る国の社会状態を紹介し、批評し、未だそれを直接見聞したことのない人々にも、思索の材料として提供しようとする場合、講演者なり、著者なりの眼の着け処は、真に大切なものではないでしょうか。
最も、公平でなければなりません。美しい方面も、非難すべき方面も、共に見て、その間に横《よこた》わる美なる理由、非とすべき理由を研究しなければならないものではあるまいかと考えるのです。
例えば、外国人の著書に屡々《しばしば》欧米の婦人運動、又は女性の社会に於ける位置の進化というものの研究材料として、東洋、多く支那、日本のそれを例に引く場合を考えて見ましょう。
彼等は、日本の婦人が全く奴隷的境遇に甘じ、良人は放蕩をしようが、自分を離婚で脅かそうが、只管《ひたすら》犠牲の覚悟で仕えている。そして、自分の良人を呼ぶのにさえその名を云わず“Our master”と呼ぶ、と云ったと仮定します。
これを見た日本人は、恐らく、一言を付加せずにはいられない心持が致しましょう。
勿論、日本にもそんな無情な良人がないことはない。けれども、決して、一般の日本婦人の状態だとは云えない
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