行為と認めて通していることでも、インテリゲンツィアとしての自主的な判断、その行為の社会的価値の評価に立って、敢てしないところにある。それをしないからと云って叱るものがないにしろ、人間としてなすべきことと知ったときには我身に負うてそれを敢て行う合理性の強靭さではないだろうか。夏目漱石時代のインテリゲンツィアさえ、この人格自立の精神についての原則は理解し、主張している。文学の発端も、この人間性の主張にこそはらまれているのである。
平野氏が、小林多喜二の死を英雄的に考えることは、要するに一つの俗見であって、それは日本の民主主義そのもののうちに尾をひいている封建性であるとし、その幻想をはいで見せようと試みているなら、それは目標を誤って重大な過失となった。小林多喜二が殺されたそのことが偉いのではもちろんない。インテリゲンツィアが歴史の進歩において可能とされる自身の展開のために献身し得る道がそこにしかないというような社会をこそ私たちは絶滅しようとしているのだし、小林自身の窮極の目的もそこにあった。小林多喜二の死は、まさしく日本の自主的精神に加えられた暴圧の表現である。そのような結果さえもたらした
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