の沈丁の花が押されていた。強い香が鼻翼を擽《くすぐ》った。春らしい気持の香であった。
「私もこの花は好きよ」
「いいでしょう?」
 千鶴子は前垂れをかけたまま亢奮して飛び出して来た、そのつづきの調子で、
「一寸この人字がうまいでしょう?」
など、断《き》れ断《ぎ》れに喋った。
「お上りなさいな」
「いいえ、また。これさえ香わせて上げればいいの、左様なら」

 はる子に優しい感銘を与えたこの立ち話しのみならず、千鶴子はいつも帰りを急ぐ人であった。彼女は夜が好きで自分の勉強は夜中するのだそうであった。弟は昼間勤めに出る。朝八時までに食事の仕度をしてやり、それから昼前後までが彼女の安眠の時間であった。それ故、はる子のところへ遊びに来るのは午後だ。はる子も寝坊な女であったから、それは好都合だが、一寸話すともう四時すぎる。千鶴子は三十分位で帰らなければならない時があった。夕飯をたべてから弟は夜学に行った。その仕度を彼女はおくらせてはならない。――
 もう永年のつき合いで、だが顔を見、やあというだけで気がくつろぐというのではないから、はる子は時に千鶴子の訪問から気ぜわしさだけをアフタア・イメイジと
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