た洋館の閉された窓々が、まばらに光る雨脚の間から、動かぬ汽船の錆びた色を見つめている。左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺めつつ、俥夫は急がず膝かぶを曲げ、浅い水たまりをよけよけ駈けているのだが――それにしても、と、私は幌の中で怪しんだ。何故こんなに人気ない大通りなのであろう。木造洋館は、前庭に向って連ってい、海には船舶が浮んでいるが、四辺人の声というものがしない。遠方の熾んな活動を暗示するどよめきさえ、昼近い雨あがりのその辺には響いて来ない。商館の番頭、小荷揚の人足も、長崎では今が昼寝の時間ででもあるのだろうか。一つの角を曲る時、幌の上を金招牌が掠めた。黒地に金で“Exchange. Chin Chu Riyao.”然し、ここでも硝子戸の陰に、人の姿は見えない。

 五月の『文芸春秋』に、谷崎潤一郎さんが、上海見聞記を書いておられる。なかに、ホテルについて、マジェスティックが東洋第一といいながら、ボルト酒のよいのを持たない、「長崎のジャパン・ホテルにだって一九一一年のブルガンディー酒があるくらいだのに」云々とある。読んだ時、私は思わず頬笑んだ。秘密な愛すべき可笑しさが、ジャパン・
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