した」
 すると、俥夫達の背後に立ち、頻りにYを観察していた大兵の青帽をかぶった詰襟の案内人が、
「上海へおいでですか」
と訊ねた。我々は苦笑した。長崎というと、私共は古風な港町を想像し、古びながら活溌に整った市街の玄関を控えていると思っていた。降りて見ると、改札口につきものの嫌な宿引きさえ一人もいない。それは心持よいが、タクシーもなく、激しい速力で昨夜から、長崎へ、長崎へと、駛りつづけて来、緊張した神経が突然無風帯に落ちこんだような緩慢さを感じた。ゆっくり問答した結果、私共は二台の俥に乗った。長崎唯一のホテルであるジャパン・ホテルに先ず行って見ることになったのだ。日本風の宿屋は二三、名を調べてあった。然し私共は京都を出たばかりから、美味い紅茶やバターの味の欠乏を感じていた。長崎ではホテルに泊るというのが、楽しみの一つでもあった。
 停車場前の広場から大通りに出ると、電車の軌道が幌から見える。香港、上海航路廻漕業の招牌が見える。橋を渡る。その間に、電車が一台すれ違って通った。人通りの稀な街路の、右手は波止場の海水がたぷたぷよせている低い石垣、左側には、鉄柵と植込み越しに永年風雨に曝され
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