ホテルにだって[#「にだって」に傍点]という四字からひとりでに湧き上って来るのだ。
 今もいった通り、異様に森閑とした波止場町から、曲って、今度は支那人の裁縫店など目につく横丁を俥は走っている。私は、晴やかな希望をもって頻りにその町のつき当り、小高い樹木の繁みに注目していた。外でもない。我等のジャパン・ホテルは確にそこに在るらしかった。緑の豊かな梢から、薄クリーム色に塗料をかけた、木造ながら翼を広やかに張った建物が聳え立っている。そのヴェランダは遠目にも快活に海の展望を恣ままにしているのが想像される。大分坂の上になるらしいが、俥夫はあの玄関まで行くのであろうか。長崎名物の石段道なら、俥は登るまいなど、周囲から際立って瀟洒でさえある遙かな建物を眺めていると、私は俥の様子が少し妙なのに心付いた。俥夫は、駈けるのを中止した。のたのた歩き、段々広くもない町の右側に擦りよって行く。曲角でも近いのかと、首をさし延し、私は、瞬間、自分の眼を信じ得なかった。ジャパン・ホテルは、彼方の丘のクリーム色の軽快な建物などであるものか。つい鼻の先に横文字の招牌が出ている。而も、その建物を塗り立てたペンキの青さ!
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