うことに甚大な関心がもたれる。東は東、西は西と云う考えをもちつつも、バックは西の心で東を見ているのではない。彼女は、東の心で西へ向って、東は東と云っている。現実の問題として、ここでもバックの眼が碧《あお》く皮膚が白いことは、皮膚の黄色い民衆から彼女を撥《はじ》き出していないのである。バックと同じ眼の色、皮膚の色をもったアグネスがそうである通りに。中国において、この二人の特色ある婦人の文筆活動家たちは、或る渦の中からと、その外からと、働きながらおのずと近づきつつあるように見える。バックが自分で歩いているとも知らず、熱心に周囲の民衆を眺め、共感しているうちに、時代そのものが彼女をすすめて、アグネスの居り場処に近づけつつある。
 バックの最近の作「闘える天使」をよむと、彼女には、もう一つの発展の契機がのこされていることが分る。それは主として境遇的なのである。バックは中国の拳匪の乱にふれた箇処でこう云っている。彼女の父「アンドリウのごとき人物の行為は、たとえ高潔な目的と善良な意志から出た正義にもとづくものとしても、一種の帝国主義として許し難い。――と理性は認めることが出来る。しかも心は戦慄せざるを得ない。なぜなら、その帝国主義排斥のまとになって殉教した人々は善良かつ悪意のない人々であったからである――彼等は盲目的であったが、そのために善良かつ悪意のなかったことに累を及ぼす筈がない。」そして、バックは「これ等二つのもの――理性と心の声は決して妥協できない」理性と心情とは互に正当性を主張して「水掛論になる。正当な断案は下さない」と云って、そのまま次に進んでいるのである。バックには、この作品ではまだ語らずにいる「断案」を次の作のために用意しているのかもしれない。次の作品の主題として「闘える天使」の中では注意ぶかく埋められてあるものなのかもしれない。それにしても、この作品の根本的な限界はキリスト教の信仰そのものへの分析が行われていないことと、この理性と心との対立の中に認められる。人間の行為が、その人の主義ではどんなに善意からされたものであろうとも、客観的事情からは反対物となり得る。その人の正しさそのものさえ相対的関係の中では反対に現れることさえある。これは本気で生きた生活者なら会得せざるを得ない事実である。
 バックが、個人と社会関係とのいきさつについての観察において、彼女のリアリ
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング