る。その点をパァル・バックはどう考え進めているであろうか。
 日本びいきといわれているヨーロッパ人の日本らしさ[#「日本らしさ」に傍点]を愛し支持する心持の表現を、一般の常識あり且つ穏健な日本人が時に苦笑をもって迎えなければならないことがある。日本の美といえば京都、奈良、お濠の景色というのは、ものを知らない観光客だけではない。カソリック詩人のポール・クロウデルも、日本に来たときは、お濠の石垣を詩につくったし、日本の柳、三味線、徳川時代の服装の女を配した夢幻劇をつくった。日本の女の美は昔風のしとやかさ、髷、袂にあるとヨーロッパの女にいわれて、ある当惑を感じない今日の若い女、ジャン・コクトオの日本[#「日本」に傍点]を苦しく感じない知識人があるであろうか。最も当惑することは、ヨーロッパ人が日本を観賞するそういうマンネリズムを、国内的に逆用される場合である。日本のねうちはそこなのだから、と外からの皮相的な日本を見る目を内へあてはめて、利用される場合である。そういう場合は、無邪気で無責任なそして無智な観光者の異口同音さえ、その国の一般人の実際生活の上では案外の重圧と転化して上からかぶさって来ることもまれではないのである。
 バックの中国についての感情は非常に深い。異国趣味なところは微塵もない。全く、彼女はアメリカよりもよく中国を知っているのである。従って皮相的な意味での中国は中国という考えは少しもない。中国のいいところ、ヨーロッパのよいところ、それ等をよく摂取してゆくべきであるという気持がこの精力的な婦人作家の胸中にあることは疑いない。淵《ユアン》と結婚することになる聰明沈着な美齢《メイリン》の言葉でも意味ふかくこの点は暗示されているのである。それにしろ、バックの作品中では、まだ、中国の統一的自主のあとに来る、或は中国の自立してゆく過程の内部に含まれてその有力な契機となっている民族自主の観念の発展性、未来の方向については語られていない。
 バックによって描かれているこの中国の民衆生活の内奥にある積極的な力の側に立って、アグネス・スメドレーが通信員として活動している事実は何と深い、心持をうごかされることであろう。バックは、今日まで動いて来た中国とともに自身の生活を進め、その理解をも深めて来た。昨今の複雑な中国の動きの間に、芸術家としての彼女は更にどう成育して行くであろうかとい
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