雌蛙」や「見習女中」云々には、思わず笑ったことである。が、私は同志林がおそらく最も軽蔑的な言葉として選んだであろう言葉が、それに対して全プロレタリアが闘っている最も封建的な社会性を反映する「見習女中」であったことに、意味深いものを感じた。同志林がプロレタリア文学運動に参加して二年の「見習女中」に対して自身の多年の閲歴を語るのであれば、それは、「見習女中」の科学性の欠如をくまなく明らかにし、自身の文学的活動のより高いレーニン的段階の獲保によってプロレタリア文学を押しすすめることにおいてこそなされるべきではなかったか。
「一連の非プロレタリア的作品」において、同志林は直接に作品を問題とされていない。それにもかかわらず、「見習女中」をやっつけるために第一線に出動し、手紙の形式で同志藤森、須井を初め、同志川口、鈴木、黒島などを引き合いに出し、或いは「おこれ、おこれ」と叫んでいるのは、まことに奇妙である。多分今年の始めか、昨年末であったか、同志林が、同志小林多喜二について「好漢小林多喜二も、どこかでなすべきことをやっているらしいから、これは大いによろしい」という意味のことを書いていたのを記憶するのは私一人ではなかろう。その同じ同志小林は、僅か一二ヵ月の間に一躍、中條とともに「日本のプロレタリア文学の発展に最悪の影響をあたえている連中」の一人とされたのである。しかも、吾々は一人として、同志林と小林との間に、プロレタリア文学についての討論が行われたことを知らない。同志林によって、小林に対する評価をそのように変化させる原因となった特殊な研究が発表されたということをも聞かぬ。われわれをふくめて大衆一般は、それを同志林の全く主観的な原因による評価の変化として理解する以外の、どのような根拠も不幸にして発見し得ない訳なのである。
 同志藤森と林とは何故論文批判の中心をその科学的検討に置き得ず、中條への個人的攻撃に集中し、同志藤森においては自身の調停派的態度を明らかにし、同志林にあっては、階級的運動内にあってそれがある種の危険とされている方向へまで自身を暴露するに至っているのであろうか。
「一連の非プロレタリア的作品」という論文は、例えば同志藤森の「亀のチャーリー」の批評についていえば主題の積極性を欠いていることを指摘した点。「幼き合唱」に対して、その作品がプロレタリア的観点からの著しい背離
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