非プロレタリア的作品」という論文との関係に対する批判者たちの関心である。同志神近は「同盟が過去一年間に堆積して来た指導理論の一部の偏向を極端な形で現している」と認め、同志藤森は、「僕自身いわゆる指導部の一員として」「中條的批難は別として」「僕の知る限り同盟の誰も」「作品を非難しても君の階級的意志を否定する者はない」同志林の才能や長所その他についての「考察や反省は今迄も指導部でされてきた。今後は一層強力に一般的になされるだろう」云々と云っている。
 私は順次、第一の批判からとりあげてそれを正しく自己批判に摂取すると同時に、プロレタリア文学運動全線との関係においてその批判の意を観察して行きたいと思う。
 われわれの陣営でどの一つの論文にしろいわゆるケンカを目ざして書かれるということはあり得ないことである。何かの意味である一つの問題を大衆化し、討論し、正当な発展へと押しすすめるべき目的をもって書かれるのであるから、その論文が先ず読者を納得させることに失敗したとすれば、それは論文のマイナスの部分として認めなければならぬ。同志藤森が、論文中にあるある種の文句を、不適当のものとして指摘したことは正しい。
 しかし、そのことと「悪罵」とは明らかに区別されるべきであると思う。悪罵とは、討論の対手に対して、個人的罵倒即ち「眼鏡をかけた雌蛙」だとか、例えば「尻尾のない雄鶏」だとか云うことであって、これは作品評として、科学的内容の不正確な形容詞をつかうことと同じことではないのである。
 それにつけても、同志藤森、林によって腹癒せ風に個人的非難が加えられたのみで、論文の基本的な点にふれての科学的究明による批判がいささかもなされなかったことは、遺憾である。何故ならば、「一連の非プロレタリア的作品」についてのみならず、われわれが互に発展するためには、客観的真理をわれわれの目前により明確にあばき出さなければならず、科学性の欠如そのものによってひき起された誤謬を証明するためには、常により正確な科学的方法が発動させられなければならない。
 発展はこのようにしてなされる。いい気持で、傲慢な罵倒をしているのは小ブルの自己満足であるといわれても、筆者がもし、自己満足のためにそれを執筆せず、傲慢を志してもいない時、それは批判者並びに筆者にとって、何らの発展をももたらさないであろう。
 同志林の「眼鏡をかけた
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