わり]
『プロレタリア文学』一月号所載中條の論文「一連の非プロレタリア的作品」に対して、同志藤森は二月号同誌に「批判の批判」二月五日『東京朝日新聞』に文芸時評「我等の運動」を、同志林は『改造』二月号の文芸時評において、同志神近市子は『日日新聞』月評において、それぞれ反駁、批判を発表した。
私は、これらの反駁、批判を注意ぶかく読んで、自身の論文について多くのことを学んだと同時に、それらの反駁、批判それぞれが又そのものとして、われわれプロレタリア文学運動をレーニン的段階へと押しすすめて行こうと努力する者すべてにとって、種々見落すことのできぬ問題をもっていることを発見した。この一文は、それら両面からの問題を明らかにするために書かれたものである。
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「一連の非プロレタリア的作品」に対して与えられた諸同志の批判を見ると、そこに一貫して云われている幾つかの共通なことがある。その一つは筆者中條が「無反省的思いあがり」で「ABC的観念的批評をやりながら」「おそろしくいい気持で」「傲慢な罵倒」を「小ブル的自己満足」をもってしている。(同志藤森「批判の批判」)又、中條という「少し太りすぎて眼鏡などかけた雌蛙」「プロレタリア文学における」「見習い女中にすぎない」者が「藤森さんやきみ(同志須井一のこと・筆者)やぼくの小説を材料に、千切り大根の切り方の練習でもするつもりらしい。」「中條百合子・小林多喜二――せまい文学理解と、あやまった政治家的うぬぼれによって、われ一人プロレタリア作家という顔をし、仲間のすべての労作をめちゃめちゃにきりきざんでそのあとに無をのこす日本プロレタリア文学の発展に最悪の影響をあたえてる連中」(同志林『改造』文芸時評)であること「自分の陣営内の同志の過失(?)を訂そうとして、政治上の敵に対すると同じ悪罵と論難とを加えること」「自分の仲間を一人一人敵の陣営に(例えば結果としてでも)つき出そうとするような言動は、われわれは例えばどんな動機からでも避けなくてはならない」(同志神近「二月の文芸作品」)
他の一つは、どの批判にも繰返されているところの、作家同盟が同伴者作家をも含む広汎な大衆組織である、同伴者作家の階級的価値を認むべきであり、中條は「同盟拡大強化の反対者である」(同志藤森)という同伴者性の強調。
第三は、作家同盟の指導部と「一連の
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