の傾向を以て書かれていることを指摘した点は、正鵠を得ている。両者の批評に際して、これらを決定的な非プロレタリア的作品としてしまっている点が誤りである。
「樹のない村」についていうと、作品の積極的な面を認めつつ、作中に現れた作家と組織活動との関係の理解の立ちおくれについての面に批判を集め、作品批評としては当然とりあげられるべき他の面、農村の扱いかたに対する新しいプロレタリアートの方針の観点からの批判を行っていないことがあげられる。
 この論文のように、いくつかの作品に現れている作者の組織活動に対する理解の一定傾向の批評に連関して右翼的偏向への警告を意企したのならば、むしろ論文は「作品に現れた組織活動の問題について」という風にとり扱わるべきであったろう。作品評としてではなく、ある作品のその面についてだけ問題を抽象して来るべきであったろう。問題をそのように整理せず、同時に各作品の右翼的傾向、逸脱への危険の具体的な程度を充分分析し得なかったところに「左」翼的危険としての破綻が現れているのである。
 同志藤森、林の批判の批判は、それらの諸点をこそ明らかにすべきであった。批判によって、筆者と大衆とを高めてこそ「批判の批判」たり得るのである。
 もし又、中條の批評が右翼的偏向との闘争をとりあげたそのことにおいて誤っていると考えられたのならば、そのことを大衆の前に明らかにし、作品についての科学的自己批判によって、そのことを証明するのは作者としての義務であると思う。
 同志藤森も林も、自身の文学的活動に現れた右翼的危険、逸脱については頑固に黙殺し、中條に対する、「非難の嵐」だけを吹き立てるのは何を意味するのであろうか。
 私はこれら同志の態度は、常に主要な当面課題を回避する右翼日和見主義の危険を十分反映するものであると云わざるを得ないのである。
 右翼的偏向は、「左」への偏向によって克服されるものではない。然し、右翼的日和見主義との闘争は、作家同盟の第五回大会決議が極力警告しているとおり、プロレタリア文学をレーニン的段階へ押しすすめるために欠くべからざる一つの条件である。そうとすれば、われわれ自身に対してもこの監視を怠ることは許されない。
 まして、わが作家同盟が、その成員と活動の歴史性により過渡的制約性として、現在まだ少なからず小市民性的要素を包括している場合、その小市民性こそが困
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