難な闘争に際して「左」右両翼への偏向を生む社会的要因である場合、われわれの警戒と努力とは、相互的な関係において常に結ばれている。
 顕著な右翼的偏向への危険が目前および自分の作品中にあるとき、それの克服のために努力せず、たまたまそれとの闘いを取り上げた論文が、その未熟さにおいて「左」への危険を示しているということを機会に、極力それを攻撃することによって、自身の右翼的偏向への危険から目を逸らさせ、同時に右翼的日和見主義の克服を放棄している自身の態度をも合理づけることはプロレタリア作家としてとるべき態度ではない。もし中條が同志藤森、林などの批判に右翼的傾向がつよく現れていることだけを云々し、自身の「左」への危険を認め、自己批判しないとしたら、どうであろうか。「何を」「どう」ということは小説を書く場合にだけあてはまることではない。われわれが大小の誤謬を犯した場合にも、それを「どう」とり扱うかというところに、結局の解決はかかっているのである。
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 次に、作家同盟が、同伴者的作家をも含む組織であるから「自由主義左翼の同伴者作家もプロレタリア文学発展のためにも確になる」(同志林)「急進的小ブル作家や進歩的自由主義作家」などが「労働者農民出の作家批評家たちとともに広はんに同盟に吸収されなければならぬ」(同志藤森)そして、同志藤森は同志林とともに、かりに自分たちが「一連の非プロレタリア的作家」であろうと「彼女がなぐりつける理由は毫もない」「彼女はかかる同盟拡大強化の反対者であり、反ファッショ的闘争を現実に弱めるものである」と断定している点にふれよう。同志神近も、「作家同盟の目的は何であるか? 作家同盟は前衛の団体であったか、同伴者の組織であったか?」と云っている。
 われわれは周密にこの問題を明らかにして行かなければならぬ。
 先ず中條は論文のどこかで「同志藤森、林、須井は同伴者的作家である」と銘を押しているであろうか? そのような文章は書かれていない。それだとすると三人の同志たちは何によって同伴者的作家であるということを念頭においてのそのなぐりつけがやられるかのように誤認したのであろう。
 これらの人々が、もし作品にあらわれた右翼的危険との闘争を一般同伴者的作家への突撃であるという風に勘違いをしたとすれば、それはまことに中條の論文における未熟さにおいて
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