同盟指導部というものの陳弁役を行っているように見える。林房雄と自身とのけじめは一応明らかにしているようでありながら、本質的には同志林に追随している。作家同盟の指導部は中條のように考えてはいない、君を愛している、「中心指導部の強化」を計らなければ、「同盟の方向が誤りを犯し易い」から、君も「組織活動に働く必要」がある、と。
 われわれは、同志藤森が調停派(覆いをかけた日和見主義)として理解しているのとはやや異って、作家同盟の指導力の強化ということを考察すべきであろうと信じる。
 作家同盟の指導部は、例えば同志林に対してこれまでとって来た態度について見る場合、同志林の「才能や長所」を個人的に「考察」「反省」しすぎていたことにむしろ誤りがあった。プロレタリア文学運動というものの見地に立って同志林の文学的活動を見たならば、それらの「考察」や「反省」は当然同志林の右翼的逸脱との闘争が避け難いものであることをも併せ認め、それを実践的な問題として理解せしめたものである。同志林の右翼的逸脱を克服することは、プロレタリア文学運動と、同志林の才能・長所とをも正しく活かす唯一の道であることが、率直に、強く認められてしかるべきであった。
 それが最近に至るまでなんら積極的な方法でなされなかったということは、作家同盟の指導的先輩間に、右翼的日和見主義との闘争をなおざりにする日和見的傾向が幾分なりともあったことを物語るものではなかろうか。
 指導力は、明らかに強化されなければならぬ。文学におけるプロレタリアートのヘゲモニーの確立に向って強化される必要があるのである。
 指導部の問題に関連して、私はここでなお一つのことを注意しなければならないと思う。それは、組織の指導部に対するわれわれのプロレタリア的規則についてのことである。
 ブルジョア・ジャーナリズムは、わが作家同盟内に最近行われている討論の有様を批評して、同盟内の分裂とか、不統一とかいう風に扱い、ゴシップ的興味を示している。これは一つのブルジョア的歪曲である。
 プロレタリア文学運動の発展の過程にあって、特に客観的情勢の急激な進展の時期に際して、プロレタリア文学の陣営内に種々の討論がまき起るのは、自明のことである。指導部がある期間ある程度の立ちおくれを示し、ある種の傾向と十分闘争し得なかったということも起り得る現象である。その場合、われわれ
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