は全同盟、全プロレタリア文学運動の見地から互に納得のゆくまで検討し、討論し、大衆的批判を行うべきであるが、それは飽くまでも真のプロレタリア・デモクラシーによってされるべきである。それによって自身の全組織を強めることをこそ窮極の眼目としてされなければならない。指導部に対する批判の場合にでも、それは常に自身の指導部を支持し、鼓舞するためにのみされなければならないのは明らかなことである。
この意味から云って、同志林はもちろん藤森、神近などが、先ずブルジョア・ジャーナリズムの上において、自身の指導部についての問題をとりあげ、それについて、あれやこれやと論議している態度はどんなものであろうか。私のみならずおそらくプロレタリア文学運動を真に守ろうとする大衆諸君は、このような態度を、やはり一つの不規律と見るであろうと思う。何故ならば、われわれの共通な敵は一つであり、それに向って立てられるわれらの戦列は、常に可能な限りの発展的伸縮性において、然し戦闘的統一をもって固められていなければならないからである。
右翼的逸脱、「左」翼的逸脱への危険は、作家同盟が階級的大衆組織である限り、常に起り得る危険として監視しなければならない性質のものである。先に云ったように作家同盟の構成が自身のうちに、その社会的要因をふくんでいる。左右両翼への危険は、小市民性を社会的要因とするものであることをわれわれは知っている。その克服は一人の個人をやっつけることにはなく、その偏向の社会的要因を、できるだけ早く根底から克服することであることをも知っている。全作家同盟の「労働者化」の課題の重要性が、今や新しい光に照らされて、立ち現れるのである。
作家同盟の「労働者化」は組織活動の大衆化と既成の作家即ちわれわれ自身が企業へ直接結合することなしには行われない。
労働者・農民からの新しい文学の働きてがどしどし送りこまれること、既成の作家が、客分としてではなく日常活動において企業内サークルと結合することによってこそ、文学におけるプロレタリアートのヘゲモニー・党派性は確立され、組織内における小市民性の残滓の減少によって、左右への動揺の危険から高まり得るのである。
企業内サークルへの結合。このことを実践するためにも、逸脱の危険から全運動を守るためにも、先ずわれわれは、全運動の積極性を鈍らす自身および組織内の右翼的傾向と
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