かを学んだ。
彼の聴衆や読者というものは、『新日本文学』などを決してよむことのない人たちとして、平野氏は、ああいう話しかたをしたのだろうか。わたしが「討論に即しての感想」「平和運動と文学者」「その柵は必要か」などを一貫して、新しい文学のために何を求め、どういう傾きとたたかい、どの方向に統一を求めているかということは、実際によめば、その言葉をひいて平野氏がわたしを非難していることのあたっていない現実を示すことができる。
作家は、むき出しに生きて、その仕事は客観的なものとして人々のなかに送られている。どのような批判もあり得る。しかし、評論家が一人の作家について、何か本質にふれた点で語ろうとするときには、少くとも、話がそこからはじまるようなその作家の書いたものについては、その全体を一つの文学的現実として読みとるのが当然な態度である。一つの書いたもののなかから、偶然の誤記を機会に、書いてあることとはまるで方向のちがった結論をひき出して、自身のコンプレックスを展開することは、公正でないし、文学というものの客観的な真実を尊重する本質もふみにじっている。
『近代文学』十月号の話で、平野氏は雲にの
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