ようとするときには、日ごろ氏が躰をふるわすほど反撥している部分の、あらっぽい官僚主義的な考えかたや、まちがった政治主義の解釈そのままを借りて来て攻撃の武器としなければならないとは、何たる自己矛盾だろう。
 その上、『新日本文学』の「平和運動と文学者」のなかに、キドウセイを軌道性と誤記した筆記のあやまちが、そのまま校正からもれていたことは、平野氏の話を一層おかしなものにした。わたしのあの話の十一頁十二頁とよめば、キドウ性は機動性であることが察しられないことはないと思う。少くとも、これは変だ、と思われたにちがいない。変だと思うとき、ひとは、それが変だからこそ、誹謗に都合がよいとして、それをつかうだろうか。――まして代議士のやりあいではなく、文学について語る場合、平野氏が、軌道性[#「軌道性」に傍点]なんとは変だ、おかしいと云いながら、評論家としての心の働きを、強引なその変さの活用に駆使して、わたしという生きているものの体の上に、あれだけ縦横な軌道《レール》を敷いたことは、わたしをびっくりさせた。民主主義文学の話のときは、口述や速記の中の一つの誤記が、ときと場合でどういう怪物としてつかわれる
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