ない。だからこそ、小説として書く。小説は文字標式による精神活動の高度な表現である。近代小説はやっと十八世紀になってその一歩を踏み出したのである。
 日本の婦人は様々の形で非人間的なモラルに縛られてきた。恋愛とか結婚とかいう問題について受身であったばかりでなく、性生活そのものについての理解がほとんど暗黒のまま封鎖されていた。今日一時に扉が開いて、性的な問題は公然と取り上げられ始めたけれども、今日の青春がおかれている事情を見れば、そこにはそれぞれの形での春の目覚の悲劇があるように思われる。用意された知識も分別も無いままに、戦争中のあの楽しさを全く奪われた生活の檻から離され、青春はドッとばかりに溢れ出した。何に向って? どういう喜び? 何をどういう風に建設しようとして? ところがここでも、崩潰された生活安定と楽しさを喜ぼうとする激しい欲望がぶつかっている。はしゃぐことをふざけることをいつも禁じられてきた日本の娘が、今日町で、公園で種々の生活の隅々で、ひたすら笑うことをはしゃぐこと(有閑に楽しむこと)を渇望している姿は、その明暗さの錯綜によって深い問題を提出している。こういう今日の一部の生活感
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