にしている女性はいない。自分が子供を育てたならと心の底に思いながら周囲の母たちと子供との関係を見ていない女性はいない。けれども、どうしよう。竈の口はあんまり大きい。自分がその竈で食うのでなく、竈が自分の運命を食いそうに見える。なんとか、このおそろしい竈を人間の生活にふさわしい大きさまでちぢめ、合理化して行きたいと思う。子供の可愛さを自分の心の中で殺さないで、怒鳴り立てる母親とならないで、やさしい母にもなって見たい。今日の総ての人は、そういう問題が自分の心の中だけで解決しないことはよく知っている。託児所一つにしろ、衛生的な家族食堂一つにしろ、それが社会的なものであるからには社会的に建設され、婦人が家事の重荷から解放されねばならないことを知っている。そして、こういう点が解決されなければ女性が男と等しい意味で人間として豊かな経験を重ねながら、それぞれの成熟の段階で、社会に貢献して行くことは不可能であることを知っているのである。
今日の愛のモラルは、資本主義社会に於てこんなにも強く女性の生活の上に現れている板挾みの状態を、男子がどの程度まで自分の人間性そのものにもかかわっている状態として理解するかという具体的な点にかかっている。何故なら、愛は何時も好意である。不便や不幸を少くして喜びと希望とをもたらそうとする善意そのものである。自分の人生を愛し、女性である喜びを愛そうとし、人間である男の誇らしい希望や奮闘に同感したいと思っている女性たちにとって、愛とはこの生き方に必要な互いの協力と理解と信頼以外の何物であり得るだろう。愛というものが、今日の現実の中で、もし「君に台所の苦労は一切させないよ」とささやいたならば、ささやかれた女性はその嘘に身震いするだろう。信実の愛はこう相談する「さて家事が一大事だね、どういう風にやれるだろう。」考え深い普通の声でこう相談が持ち出された時、そこには現実的な助力と生きた愛がある。二人が二人のこととして辛抱しなければならないことがはっきりと見られる。従ってそれを解決して行こうとするあらゆる積極的な方法が研究される可能がある。そしてこういう相談をすることを知っている人々は、きっとその可能性というものが社会の歴史の前進の度合に応じて増して来るものである事を知っているに違いない。それだけのことを知っている人たちは、又自分たちの勤労とその喜びや悲しみの中に
前へ
次へ
全15ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング