して生きて行く人々である。その勤労して生きる人民の人口比率を見れば三百万人の女子人口が過剰している。今更繰返す必要の無い性生活全面の困難は大きい。人間らしくまともに生きようとする私たちの足もとには、何とひどい凸凹があるだろう。たまに美しい空の色をうつしている場所があると思えば、その浅い水の下には命とりの穴ぼこがある。こういう生活の道で、人間らしい一日を送るということは、はっきりと現実の中にある非人間的なものと戦った一日ということを意味する。人生を愛するということ、自分の一生に責任を感じるということ、その人間的誇りの故にこそ最もよく愛せるものを見出そうと願っている男の心女の心の結合点は、それなら何処にあるというのだろう。つまりお互いに歩く道は泥濘の多いことをよく知っていて、そこをちゃんと歩き通すには、どんな助けあいが互いに必要であり、それが与えられ与える可能性を持っているかどうかということに互いの関心の焦点がおかれる。
 実際問題として婦人の解放は憲法と民法の改正だけでは達成しない、彼女たちの一日の時間のどっさりを、とりもなおさず生涯の大部分を費させる台所と育児の仕事がもっと別なやり方でやられなければ、何より基本的な時間と体力で婦人は百年前と同じ一生の使い方をして行かねばならない。しかも百年前の無知でのびやかな、外の世界を知らない女心の狭さは、今日、本人達が望むよりも激しい勢で打ち破られている。一見文明的なそのくせ現実の社会施設に於ては無一物な荒野に、婦人は突き出されている。ショウが「人と超人」を書いた一九〇三年には自覚のある少数の男が生物的な(生の)力に虜《とりこ》になることを恐れ、それに抵抗した。一九四七年代になれば、この抵抗を非常に多数の若い女性たちが感じている。やっと発展させる可能な条件が社会に現れた今日の日本で、一心に自分を成長させ人間の歴史に何事かを加えたいと希望している愛憐らしい若い人たちが、怯えた苦悩のあらわれた瞳で眺めやっているのは何だろう。インフレーションによって人間の社会的良心さえも、その焚附《たきつけ》にしてしまっている竈の、ポッカリと大きくあいた口である。又、いくら洗っても清潔になりきらないおむつの長い列である。けれども若い自然の人間としての女性の心は愛すことを欲している。愛する者と共に住みたいと欲している。子供の可愛らしさを心の中で平手打ち
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング