それは、彼女が生れて二十年育った家の湯殿であった。
 四畳半ばかりの板敷きに畳表を置いた脱衣室の一方は、竹格子の窓になっている。下に、母の鏡台が置いてあった。鏡には、鼠色の地に雨と落花と燕の古風な模様がついた被いをかけてあった。その前で、夜の二時頃、ただならない気勢《けはい》でぴたぴた素足のまま起きて来たさよに、彼女の母が、
「さよちゃん、お父様と私と、何方が間違っているかよく聞いておくれ。私がどんな道理を云っても、お父様は、そらまた歇私的里《ヒステリ》だと相手になさらない。……何故、女になんか生れて来ただろう、どうせ一度しか生きもされない世の中だのに」
と泣いて訴えた有様であった。
 母はあの頃三十四五であった。さよは、やっと十二三であった。彼女は、途方にくれ、泣きむせぶ母の肩を自分の胸に抱きしめて、
「泣かないのよ、お母様。泣かないのよ。ね、私お父様によく云ってあげるから……泣くのをやめて、よ!」
と、波打つ鬢の毛に口をつけて囁いた自分の稚い姿をまざまざと覚えている。――
 父に何を云おうと思ったのであろう? 今になってさよは、母の切な涙を自分が流しているのを知った。そして、
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